2014年5月25日日曜日

たわごと。〜どうでもいいけど〜

ふとさ、なにやってんだろ
とか
思わん??

人の評判や目を気にしてみたり
愛想笑いしてみたり。

どうせさ、腹の底から笑わないとうまく笑えないこと
わかってんだからさ。

なんなんだろうね。
いや、自分に素直に生きたらいいだけでしょ。
誰もが。

会社が
とか
明日が
とか

ほんまは関係ないよね。
会社がどうしたんだよって。
いかんと死ぬん?って。

ずっと働くなって事じゃなくてさ
働く事は素晴らしいんだけどさ
うんざりしながら同じ場所に居続ける意味ってなんなの?って。

なにかしら学べるならいい。
人生経験だと思えてるならいい。

逃げない事は強くてすごい。
でも、逃げなさすぎて死んじゃう人いるじゃん?

頑張れなんて俺はいえんわ。
よく頑張ってるもんな、みんなさ。
逃げたきゃ逃げろよ。
体勢立て直してまた戦えばええじゃん。

怒られるからとか
誰かになんかいわれるからとか
そんなん関係ないで。

方法はいくらだってあるだろ。
頑張りたいなら頑張ればいい。
でもさ、頑張りたくないなら他に何かあるんじゃないかな。

何もやらないってのはどうかと思うけどさ
自分から頑張りたいと思える事、あるかもよ。

人になんて言われても自分らしく生きるんだよ。
迷惑をかけるのはよくないけどな。
でも、迷惑かけた100倍返せばええじゃん。

誰にも迷惑かけずに生きとるやつなんかおらんけえ。
逃げたってええよ。
辞めてもええ。
死なんとけばそれでええよ。

お金がないくらいで死ぬな。
頑張れないからって死ぬな。
死ぬくらいなら何もせんでええじゃろ。
誰になんて言われてもさ
金より命じゃろ。

なんも出来んときだってあるわ。
ぼろぼろになってもさ
何回だってやり直せるんだから。

イヤな事があってもな
無気力になるだろうけど
そういうときはなんもせんでええと思うよ。

1日何もせずに過ぎてしまう時もあるよな。
そんな時は焦るよな。
でも後から考えたらそんな日も大切だったりするんよな。


理由もなくね、
書いてみたくなったので書いてみたよ。
常識にがんじがらめになって
苦しくなってしまってる人が偶然たどり着きますように。

2014年5月21日水曜日

一方的な関係性だと捉えればイライラしない。

少し悲しい考えかもしれませんが、
なおきちはいつも関係性っていうのは一方的な物だと考えています。

これは、もともと短気な自分がガッカリしないようにだったり
悲しくなって相手を責めたりしないようにと
思いついた考え方かもしれません。

しかし、突き詰めていけばいくほど
ここに集約するのです。


恋愛においても相思相愛という言葉がありますが
それは、「状態」なだけであって
状態は常に変化していくと考えています。

自分が相手を一方的に好きになる事と
相手が自分を一方的に好きになってくれる事。
この組み合わせで相思相愛となるんですよね。

だから、「相手に対する自分の想い」と同等の想いを
こっちにも持って欲しいなんて思うのはそもそもおかしな話しであり
人は人、自分は自分なのだからフラットに考えると
それは当然の事だと思うのです。

これは、何回も女性にふられた事があり、
諦める為に納得する為に深く深く考えた結果
こういう考えにいたったんだと思います。笑


人間関係においても全く同じで、
自分が相手を気に入ってるからといって
相手も自分を気に入ってくれてるとは限らない。
逆に、自分が相手を気に入ってないからと言って
相手から好かれないとは限らない。

女性の場合、これで悩んでる人が結構多いです。
自分は相手の事なんとも思っていないのに
すごくしつこくされてしまう。。

そういう相談をよく受けます。
性別問わず、相手が現在自分の事をどのようにどれくらい
好意を持ってくれているのかを推測する事は
とても大切です。

人間同士というのは適切な距離を保つ事により、
同じ空間に共存する事が出来るからです。

距離感をはからずにいると
相手から一気に距離を縮められた時に
「そんなつもりなかったのに。。」
って事になります。

でも、ある程度相手の好意レベルを推測しておけば
あらかじめ距離をとっておけるので
距離を縮められてもさらに遠くに距離をとる余裕ができるのです。


人間関係で苦しんでる人はこの相手との「距離」の取り方が
下手なんだろうなと思います。

仕事先ではしょうがない事もありますが、
これもある程度の距離を作る事は可能です。

仕事の場合、上司に嫌われたら色々やりにくくなります。
これは、上司から距離をとられてしまってる状態になります。
だから、その場合はあえて自分から上司にとって不快にならないように
距離を近づけます。

その方法は、上司にとって心地よい、あるいは、メリットがある形で
距離をつめることがポイントだと思います。

めんどくさい仕事を率先してやる、コーヒーをいれる、
仕事を手伝う、仕事以外で食事に誘う等。

上司の性格や価値観によって判断しないといけないので
上記の事はあてはまらない 場合もありますが
そういう精神姿勢というのは大切だと思っています。


自分は相手とフェアだと思うから
イライラしてしまうんだと思うんです。

卑下しろという事ではなく、
対等だという感覚を捨てればいい。

そしたらスーパーのレジにイライラする事もなくなり
友達と遊びに行く時に友達が遅刻してきてもイライラしなくなる。
全ての事に自分が予め対処する事が出来れば
人のせいになんてする必要がない。

イライラするっていうのは
目下の人が目上の自分に対して失礼な事をしているという
感覚が少なからずあるからだと思います。

ほとんどの人は、自分が会いたくて会いたくてしょうがなかった人が
時間に遅れようが、忙しいのに自分の為に時間をとってくれたということに
感謝するだけで、そんなにイライラすることはないはずです。
有名人、大会社の社長さん、恩師、師匠。。
一生頭の上がらないような人が少々遅れてもイライラなんてしないですよね。
それは、自分より明らかに格上の人だと判断してるからなんですね。

ということは、逆に考えればイライラする対象の事はどうでしょう。。
一概には言えないとは思うし、ケースバイケースではあるけど、
相手が悪いと責める前に自分自身の精神姿勢を整え、
相手を許す理由を考えた方が建設的な気がしました。

。。まあ、僕自身もともと物凄く短気で
あまり偉そうな事は言えないんですけどね。笑
修行中です!!

相手と同等だと考える事自体が驕りだと自分には言い聞かせ
どんな人にも同じ目線、もしくは失礼にならない程度に
自分が下からの目線を意識していきます。

2014年5月18日日曜日

ここ数日間の気付き。〜価値と尖る事。〜

お風呂に入ってる時や運転している時、
風景を見て風を感じてる時等に
「ふと」感じる事があります。

思考してる事自体意識していないその時に
まるで「降りてくる」ような「湧いてくる」ような物を
「直感」と呼んでいます。

根拠も何もない、恐らく数日間の経験や見たもの、感じた物が
脳内に残っていて脈絡もなく出てくるのだと思いますが
これが馬鹿に出来ません。

もう、とっくに理由を探す事は止めました。
それよりも、湧いて出てきた直感の言葉の意味を
脳内で検証する事に夢中になるのです。

「価値」

「尖る事」

「ジャンル分け」

ここ数日間の直感をまとめるとこの3つが大きい。
特に「価値」を高める事。
これがどうも自分を焦らせる。
価値を高めるという事は尖る事であり
ジャンル分けすることであると言っている。

そこからアイデアを展開していく。
形にしたくてどうしょうもなくなる。
落ち着かなくなる。

壁に打ち当たるまで突き進んで
打ち当たっては方向を変える。
そんな、掃除機のルンバのような動きをしているのが
最近です。

こうなってくると
そのルンバが通るであろう「針の穴 」を探し続けてしまう。
あぁ、自分らしくいられているという実感が押し寄せる。

探求、追求していく事は
人生において最高の楽しみだとよく思う。

正解がない事に自分なりの正解を出し
日々、磨いていく事。
この作業がなんとも言えず好き。

過去の自分の考えの間違いに自分自身で気付いた時に
明確にその間違いの理由を自分自身に告げた時に
過去の自分が壊れ(消え)新しい自分が生まれる。

そんな時、なんとも言えない「自由」な感情が押し寄せるのです。
まるで、なんでも出来るような、どこまでも行けるような。
一言で言えば「最強」とも思えるような。

しかし、次の瞬間、そのエゴに気付くのです。
なんと愚かな人間なのだと戒める自分自身が出てくるのです。
そして冷静を取り戻し何事もなかったかのように
思考の続きを「する。」

エゴの塊のような自分は本来の自分なのだろうな。
あわよくば全てを掌握してやろうと思う程の
湧きいでる強い感情。

それを経験や環境が創り出した「利口(自称)」な
自分が制御してんだろうな。

片隅にどうしょうもなく自信が無い自分がいて
その近くに博愛主義の自分がいて。


矛盾するたくさんの自分が丸い心の中の
割合を取り合ってる。

その割合によってカクテルのように
アイデアの質や量や、核となるものが変わってくる。


こうして、自分自身の思考の動きを分析し
残している自分自身もまた今割合を獲得しただけなのだろう。

きっと誰もが相反する自分自身を抱えてる。
その矛盾に苦しみ、時には人に批判され悲しくなるだろう。

でも、矛盾や、さっき言ってた事と明日言う事が違う事なんて
そんなに不思議な事ではない。

人は、整合性がとれないことに関してすごくシビアなんだよね。
誰かがチグハグな事を言っていたとしても
昨日のその人と今日のその人が違う、ただそれだけの事なのに。


あと、もう1つ。

「何事も人のせいにしない。」

これも強く思った事。
きっと、これから必要になるのだろう。

誰かの失敗で自分我被害を被る事になろうとも
それを未然に防いであげる事が出来なかった自分の落ち度。
そう考えればどこまで行っても誰かのせいには出来ないんよね。
その事を深いレベルで納得したい。
もっともっと深く。

そうすれば何事にも腹を立てずに済む。
自分の為でもあるし、対人関係に置いて重要な概念になるはずだ。


話しがあっちいったりこっちいったりしてるが、
結局言いたいのは「直感 」というものは
過去の経験のデータを脳がフル活用して
顕在意識では理由がわからずとも自動的に
導きだしてくれてる答えだということ。

少なくとも俺はそれを信じようと思う。
現在の自分は周りから見てどうなんだろ。

もしかしたら取るに足らない存在かもしれない。

もしかしたら一部だけでも共感してもらえているのかもしれない。

しかし、大切なのは人からどう思われている時でも
自分というものをしっかり持ち、変わらず行動し続けるということだ。


あ、そうそう。
光を受け入れるということは
影も引き受けるということだと最近気付いたんだ。
いいことばかりじゃないよ。
マイナスに思える事も「在るもの」として認め、引き受け、
最善を尽くす。

そもそも人間なんてものは「選択」しているように見えて
大きな意味ではそんなおこがましい事は
考えてはいけないのかもしれない。

選択しようとするからおかしくなるのか。
本来、どうすればいいかなんて決まってんだろ。
自分なりの「正解」を見て見ぬ振りしたとき
深い部分での「正解」に気付かないふりしたとき
きっと、「正解」ってやつも容赦なくやってくるんだろ。

形はどうあれ、ね。


小さく大きな存在。
矛盾の塊。
自身のイメージが自身の姿形を決める。
自分以外の人が向けてくるイメージに影響されてしまう。
人間ってのは思ってるより本当は動物なんかな。

なんかそんな気がした。


久々に書いたな。
支離滅裂かな。
書きたい事を書けばこうなる。

自己満足。
うん、そのとおりだ。

2014年4月15日火曜日

心が前へと騒ぐ。

不要なメルマガとか解除しまくった!
物を捨てたり整理したり
こういう時期は何か新しい事がはじまるんだろうなと
変に人ごとのように思う。

自分の事なんだけどね。笑
行動してるのは自分なんだけど
なんか他人事。
だって意味分からんもん。
深夜にいきなり階段の下全部出してみたり
急に服を整理しだしたりね。笑

意識的にはモチベーションがあがったという状態になるけど
感覚的には身を任せるだけ。


こういうのは昔からある。
それに素直に従う事がいいと思ってる。

あ、そういう事なんだろうなって。

ほとんど直感だけで生きてきてるから
普通の人から見るとメチャクチャだと思うけど
俺にはそんなふうにしか出来んし
そんなふうにしかしたくないからな。

ある種人生は自動的に進んでいき
それを俯瞰してるような感覚があるよな。

もちろん、努力や成長は意識して行うのだけれど
それだけではダメな気がしてる。

自分らしくいることは
時に恐くなる時もあるけれど
嫌ではないんよな。
本当にこれでいいんだろうかという
単純に未来を心配する不安。
いわば、危機管理能力とでもいうのか。

起こってもいない事は出来るだけ心配せずにいたいね。
直感で行動する割に頭の中では最悪大丈夫なように、、なんて
常に考えてるから。


こういう感覚的な部分、自己流で積み上げてきてるけど
そらさんの話しには共感出来るところが
本当に多かったなと。

こういうの理解出来る人と出来ない人っておると思うんだけどさ、
なんていうんだろ、俺はスピリチュアルな事とかは
よくわからんけど事実、自分の人生を検証してみて
こういう感覚にたどり着いてきたわけなんだけど
徐々にそういうスピリチュアルな世界がないと
どうも説明が出来ない事ってたくさんあると思うんだよね。
タイミングとか色々ありえない出来事が大切な時期には
次々に起きていくんだよね。

しかも大概そういうのはこっちが動くからというよりも
向こうから話しがやってくるから説明がつかんのんよ。

そして自分の中での行動意欲。
素直にやりたい事をやろうとする時だけ出てくる指針。

自分らしく行くのか
世間的に正しいと思われるようにするのかで
行動は変わる。
ということは結果も変わる。

わくわくする方へ。
俺はいきたいかな。

2014年4月12日土曜日

深い海の中にいる。

時々精神状態が変な所に入ります。
もともと人と関わることが得意な方ではなく
極めて自己中心的な人間なので
急に苦しくなったり笑えなくなったり。

普段からうまく笑えてるわけでもないんだけどさ。笑
これはいつも理由がよくわからないけど
誰とも会いたくなくなるんだよね。

相手が大切とかそういうのも関係なくて
どれだけ大切な人でも会いたいと思えなかったり
大切だからこそ迷惑かけたくなくて会えなかったり
色々なわけだけど
何か無理があるから急にこんなふうになるんだろうな。


こんな日はじっと1人で出来る事をする。
今後に繋がる事、勉強、思想を極める事。。
未熟な自分を見つめ直す事に徹する。

傷つけてきた事、うまく出来なかった事、
人を馬鹿にした事、苦しかった事、
ダメだった事、
出来るだけ思い出し「ごめんなさい。」と思う。

普段マイナスな事を公言しない事を意識していて
それでも人間だから色々あって
人の、口には出さないけど思っているであろう感情を
想像するだけで恐ろしくなったりする事もあるし
自分の弱さや甘さに絶望する事もある。

誰かのせいとか誰かが悪いから。。っていうのは
そんな時でも思わない。
だって、全ては自分の思考、思想、行動から
生み出されたものだから。

相手の行動でさえ自分自身の言動や行動が
影響を与え創り出してる。

人を変えたいと思うなら
まず自分自身の思考パターンと行動を変えないといけない。

そもそも人を変えたいと思う事もないけどね。
でも、誰かの人生がうまくいくようになるならば
その為に行動出来たらいいなって思う。


たくさんの人の感情がノイズのように入り交じってる。
それを普段非言語で読み取ろうとアンテナを合わせてるから
そのしわ寄せが急に来るのかな。



誰もが在りのままいられればいいのに。
そのままで素晴らしい存在に。

何も努力せずに在りのままで素晴らしいという事を望むのは
驕りだと思ってる。

しかし、努力の方向を間違えると嫌われてしまうなんて事態に
なることもあるだろう。

成長を望み行動を起こしその先に人間的に成長して
やっと在りのままで素晴らしいと認められるようになる頃
きっと精神と共に体も年老いているだろう。

だから老人はなんだか可愛らしく見える。
きっと、邪気が少ないからだと思う。
たくさん色んな事があって
川を転がるような痛みと共に丸く丸くなっていったんだろう。

僕も出来るだけ早くそんなふうに丸く丸くなりたいと思うのだけれども
急に理由も無く襲われる悲しみや虚無感に
体を任せる事しか出来ない。

目に見えない理由を一日考える事もある。
きっと、何事にも原因というものはあり
過去にさかのぼって擬似的に消すしかない。
擬似的に消しても本当に消えるわけではないので
現実の世界で未来の為に検証し消していく。

そんな実験の日として今日のような日が割り当てられているのだろう。



音の無い部屋でカフェインが体に染み渡り
徐々に生活音が戻ってくる。

なんとも言えない感情が戻ってくる。

無意識のうちに人を馬鹿にしたこと
あたたかい毛布に包まれた日の事
小さな花が可愛かった事
色んな感情が一度に押し寄せ涙が出そうになる。

正解なんてないんだ。
自分で見つけていくしか。


時々ふと大海原のど真ん中に居る事に気付く。
とても晴れていて心地いいけれど
急に景色がモノクロになったりするんだよね。

全てが曖昧に思えてきて
何もかもが表面上の出来事のように思えてきて
本当の事を探す。


もしもさ、
自分に本当になんらかの力があるとしたら
常識とはかけ離れた所でしか使えないような気がしてんだ。

正直、常識とか世間体とかどうでもいいんだ。
社会性に欠けるなって自分自身よく思う。

必死で「普通」なフリをしてるけど
本当はそういうのいっぱいいっぱいなんだよね。
向いてないよ。

関わる為に「ちゃんと」するけどさ
自分の社会性のなさで人を傷つけたり
困らせたりしたいわけじゃない。
迷惑をかけたいわけでもない。

未熟者が「在りのまま」なんて言葉を使う事自体
おこがましいのかもしれないけれど
いつか、もっともっと人間的に成長してから
自分らしく生きる事が出来たらとてもいい。

もっと、もっと。

今でも周りの人のお陰で自由にさせてもらってる。
だから、もっともっと成長しよう。
さらに自由になる為に。

人と会話をするのと同じくらい
自分との対話が大切なのだと改めて思った。

心からの声は本来マイナスもプラスもない。
物事そのものにマイナスもプラスもないように。

結局マイナスかプラスかなんて
人間にとってどうかっていうだけなんだよね。


本来の自分を見失わないように
自分でいられる時間を大切にしよう。

2014年3月22日土曜日

ありがとうが足りない人。

なおきちは昔ありがとうが足りない人でした。
もしかしたら今でもそうなのかもしれません。。

それでも昔に比べると何十倍もありがとうと思う事が多くなり
心の底から感じる事が多くなりました。

しかし、表現をするのは本当に今でも下手だと思います。
なんだかわざとらしくなってしまうのが嫌で
リアルな感じにしようと思うとなかなか。。

表現が下手でも行動で返せばいいやとか思うけど
それさえ出来ているのかどうなのか。。


ありがとうと素直に言えない人の気持ちはわかるんです。
なんだか恥ずかしいような難しいような。

ありがとうとあまり感じる事の無い人がいるのも知っているのです。

だからこそ人に何かをするときは
ありがとうの言葉や気持ちさえ返してくれなくてもいいや。
って思って、自分がやりたいからやるのだと
自分自身思ってたんです。

 人それぞれだから人に期待しすぎる事はないけど
この世の中ってもしかしたら
「ありがとう。」で成り立ってるんじゃないかと思ったんです。

人から強引にお金を受け取る事はしたくない。
お金を失いたくない。。と思いながら渡されるお金は
気持ちいいものではないですもんね。

ありがとう。と笑顔で渡されるお金っていうのは
こっちが申し訳なくなるくらいお互いが嬉しくて
気持ちがいいものですよね。

商品を買う時ありがとうと感じる事が出来る人って
素敵だと思うんです。

お金以上の価値を商品に感じてるっていうことだから。
なんかそういうのってかわいらしいし素敵だなって思います。

こんな高い値段で売りつけやがって。。
なんてお金を惜しく思いながら物を買う人より
個人的には、やはり感謝がある人の方がいいなって思うんです。

お金の主人になるのか
お金の奴隷になるのか。

感謝の気持ちというものがコントロールの鍵となる気がしました。


お金と感謝は直接は結びつきません。
感謝の気持ちをあらわすのにお金は必要ありません。
しかし、精神姿勢というものはなんとなく透けて見えるものです。
感謝の気持ちがある時積極的に協力したいと思ったり
何か力になれる事はないか。。と自主的に探したりするものです。
具体的に力になりたいと。

一方的にしてもらうだけで
何も出来ない自分が悔しい。。
なんて言葉を何度も聞きました。

感謝の気持ちが強い人って
自分がしてもらってばかりで相手に何も返せないという事を
真剣に悩んだりするみたいです。

そんな意識の高い人が周りにいてくれる事は
自分にとっての誇りですね。

口先だけではないというのが
やはり伝わってくるものなんですよね。

自分ももっともっと感謝 を感じれるレベルを高めていきたいなって
思いました。

お金、人脈、スキル等は
結局自分を誇示する為に持つ物ではなく
柔軟に感謝を具体的な形で返す為の
道具なのだと思っています。

たくさん感謝を返す為に
たくさんの魅力的な道具を揃え
必要な時に必要なだけ
貢献出来る自分になりたいと思いました。

2014年3月19日水曜日

察する。

空気が読めるとはどういうことなのか。。
ふと考えます。

何故空気が読める人と読めない人が存在するのか。。


空気が読めるということは「察する」事が出来る人だと
思いました。

相手にいわせるまでもなく気付く力。

非言語コミュニケーションの集大成。

それが空気を読むという事だと思いました。

おそらく経験に起因している部分は大きいと思います。
こういう状況ではこうした方がいい。。等、
一概に決めるのではなくそこにいるメンバーや性格、
価値観等総合的に考えて自分で判断する事。

一対一の場合は相手との今までのやりとり、
相手の言動、行動、表情等から
価値観を推測し相手が望んでいるであろう行動をとること。
その際確実性の無い判断なら極力リスクを避け
相手に不快な思いをさせないということに専念する。

もっと言えば
目の前の相手と似た人物と過去に関わっていたならば
その人はどういう性格でどんな価値観だったか
思い出し参考にする。


人間の価値観は千差万別。

「必ず」ということはない。
相手の気分によることもあるしどんなときも
一概には言えない。

だから、タイムリーに察し続ける事で
的確な判断に近づく事が出来る。


女性がコミュニケーション能力に長けていると言われるのは
この空気を読む力に特化した人が多いからだと思ってる。

女性の集団の中では、はみ出し物はいじめの対象になったり
協調性のない人間は嫌われる傾向にある。
もちろん、そうじゃない集団も存在すると思うが
個人的にはそう思っている。

出る杭は打たれるし誰が群れのトップなのか
瞬時に判断し従う者には平安が約束される。

常に弱肉強食。
力関係は推移する。
現在誰が力を持っているのか
属する人間は注意を払う。

また、女性はうわさ話が大好きだ。
こっちではあっちの悪口を言い
あっちではこっちの悪口をいう人も少なくない。

そんな世界で生きたならコミュニケーション能力を
磨くしか無くなる。

表情を読み
相手が何をすれば喜んでくれるのか
事前に察知し行動する。

そうすることで自身の身分が保たれる。


それが出来なければ
無視やいじめの対象になったりする。



まあ、これは学生さんに顕著に出る状態なんだけど
大人になってもこういう場面とは度々遭遇する。

相手が女性とは限らない。
ネチネチした男性上司や陰湿な同僚と
関わらないといけない場面も出てくるかもしれない。

そんな時どれだけ相手が悪くても
相手が悪いから。。 と言い訳してるだけでは
生き残れない。

言い訳せず行動し結果を残してきた人間は
やはり空気が読める人が多い。

洞察力にすぐれ相手が喜ぶポイントを
知っていたりする。


非言語でのコミュニケーションが
発達してる女性は面白いし人気がある。

仕事でも必要なスキルとなってくるので
認められる可能性も高くなる。


空気を読む力というのは一朝一夕で
確立出来るものではない。

豊富な経験と気が遠くなる程の時間考え悩んだ結果
生まれる事が多いように思う。


最近コミュニケーション能力が低い人や
空気が読めない人が増えているように思う。

まあ、俺も人の事言えないんだけど。笑


誰もが気持ち良くすごせるようになるには
距離感を大切にしお互いが譲り合い空気を読み合うことによって
無駄な争いもなくなる。

時にはぶつかることも大切だとは思うけど
細々とした事でいちいち不快にさせたりさせられたりするのは
誰も望んでいない事。

これからも「空気を読む」という事について考え
自分自身も気をつけ
見つけた気付きは共有しようと思う。

同じ速度で全速力で。

チーム、組織の事を考える時
いつも音楽のバンドをイメージする。

バンドってさ
誰か一人でも下手なやつがいたら
そのバンド自体のクォリティも
一番下手な人のところに
設定されてしまうんだよね。

だから誰とどんな音楽をやるかって
大切だと思ってる。

上手な人が揃ったバンドに所属出来ても
自分が一番下手だったら
そのバンドはそこまでのバンドなわけだ。

すごいバンドを見てるとさ
各自が全速力で走ってるように
俺には見える。

全力でなりふり構わず走ってるんだけど
同じメンバーと全く同じ速度なんだよね。

だからこそカッコいいんだ。

本当はここまで出来るけど
それやっちゃうと他のやつがついてこれない。。
なんて考えながらやってたら
そりゃ最高の力なんか出せないよな。

スキルが高いだけがバンドではないとは思ってる。
しかし、なんらかの個性は必要だし
個性的なメンバーをバックグラウンドで支える為にも
スキルは必要なんだよな。

全速力で疾走するようなバンドを見たいし
そんな組織を夢見ている。

2014年3月17日月曜日

偏る勇気。

思えば平均的に馬鹿にされないように
失敗しないように能力を伸ばしてきた気がする。

好きな事は時間を感じないくらい集中するから
ほっといても上達したんだ。

最低ラインを伸ばす努力というのは
とても単調だ。

人を傷つけてしまわないため、
自分の身を守るため
内面からちゃんとしようと思って
成長を続けてきた。

その結果、昔の自分とは
比べ物にならないくらい成長は
出来たと思う。

それはそれでいい事だとは思ってる。


しかし、同時に平均的な人間になったなぁ。。
という自覚もある。

思考をフラットにしてんだから
当然ではあるんだけどね。

ん〜。。もちろんね、それはそれでいいんよ。
自分が望んだ事だから。

でも最近どこか物足りなさを感じてるのも事実。

な〜んか、中途半端だなってさ。

内面の話しでいうと
もっともっと崇高な人って世の中にたくさんいると思うんだよね。

俺が逆立ちしたってたどり着けないような人。
どの世界にもいるじゃん。
神?天才?って人。

そういう人と勝負したいなら
毎日、一生の時間を使っていくしかない。

そもそも本当に好きなものじゃないと
そんなに時間を使う事すら難しい。


もうちょっと肩の力を抜いてみようかな。
何をやっても批判と賛同はあると思うんだよね。

もともと偏った人間だったから
それがコンプレックスで
なんか自分ちんちくりんだなって思って
直そう、改善しよう、努力しよう。。で
結果平均に近づいた。

ほら、お仕事とかでもさ
平均的になんでもこなせる人と、
ダメなとこもたくさんあるけど
この分野だけは安心して任せる事が出来るっていう人
どっちが重要?って聞かれたら後者だと思うんだよね。
平均的になんでもこなせる人も大切だと思うけど
そういう人だけでは平均的な結果しかだせないんだよな。

中にメチャクチャ偏ってるけど
こいつがいるからまわるんだよな。。っていうやつがいるから
組織全体の平均点はあがるんだと思う。

とくにリーダーや代表っていうのは
偏ってなければならないのかもしれないと
ちょっと最近思ってきた。

逆だと思ってた。
誰にでもフラットに接することが大切なんだと思ってたけど
ほら、社長とか代表とかリーダーって呼ばれる人って
個性的でちょっと変な人多いじゃん?笑

我が強い人も多いし。
だからこそ成立するし、
そうじゃないと難しいんだと思った。

尖ってれば尖ってる程いい。
偏ってれば偏ってる程いい。

その何をも恐れない鋭い感覚に
人々はついていくのかもしれないと思った。

文字通り刺さらなければ人は動かない。


一つに特化する。
なんでも出来ますよっていうのは
大した魅力ではない。
いくつ出来るかが大切なのではなく
どのレベルで出来るかが大切なんだ。

高いクォリティで出来る事が一つあれば
どれだけ偏った人間でも害がなければ
問題ないのかもしれない。

需要のある自分が出来る事を
伸ばしていく事が大切かな。

あとはやっぱキャラも大切なんよな。
キャラってはっきり個性が出てることだと思うんだよね。

個性って好き嫌いを明確化して
わかりやすい事が大切だと思ったんだよね。

嫌いな物を批判するという意味ではなく。
無駄な批判は絶対よくない。

自分が関わらないでいいものを明確にするという事が
大切なんよな。

嫌いな物をどうこうする為ではなく
好きな物に特化する為に明確化したほうがいいと感じた。


天才と同等の力を発揮するには
個人では難しくともチームで戦えば
いけることもあると思ってる。

チームを組織するには
まずは代表がどんな基準でどんな思考なのかが
とても大切。

それによって集まる人間、
残る人間が違ってくるのだから。

チーム自体が目的に特化する必要があるのだから
リーダーはその目的に誰より特化していれば
少々偏っていてもいいんじゃないかと感じた。

それを理由に努力を怠ろうとしているわけではなく
力の入れ方、配分を間違わないようにしないといけないと
感じたので残しておこう。

2014年3月15日土曜日

エーテルを探しに。

光を伝えるため
この世界を隙間なく
埋め尽くされていると信じられていた
エーテルという存在。

こういう過去の価値観みたいなものはとても好きだ。
今では廃れてしまっているが
当時の人達は本気でそうなのだと信じていた。

なんだかそんな時代がひどく愛しくなる。


僕はひねくれものなので
世界が捨てた価値観を愛する事もある。

概念が好きだからだ。

その中でもエーテルというものが好きだ。

この世界に光を伝え届ける為に
必要と思われていたもの。

隙間なくエーテルで満たされている世界。

何もないと思っていたすぐそこの景色は
本当は満たされていたのだと
初めて知った人々は
どんな気持ちになっただろう。

その瞬間の事を時々考える。

僕が知り得るはずもない瞬間の事を。


なんだかとても愛しく感じる。

子供は窓の外を眺め
大人は仕事の合間に町並みを眺めている。

そんな架空の世界を思い描いては
わくわくする。

実際には子供がそんな概念に興味を持つ事は
稀だろうし大人もそれどころではないとは思う。

けど、そんなことはどうでもよくて
自分の中のパラレルワールドは
いつもそんな感性を持った人達が
登場するのだ。


現実の世界は時に厳しく難しい。
しかし、それが楽しくもある。
何故なら全ては自分の力で変化させる事が
出来るからだ。

勝手に想像する世界とはまた違った楽しさがある。


僕が写真を撮るのは
ファインダーの向こう側に時々
イメージする世界を見る事が出来るからだ。

肉眼では到底見る事の出来ない世界。

コントラストもデタラメで
光だって丸くなったりするんだよ?

すごいすごい。

向こう側の世界を覗くのに
高いカメラは必要ない。

しかし、どんな世界を覗きたいかによって
カメラやレンズは違ってくるな。

僕が勝手に持つイメージの世界と同様に
現在は写真も我が侭に加工してしまう事が
出来るよね。

何が正しくて何が間違ってるなんてないんだ。
好きにやればいい。

いつか、ファインダーの向こうに
エーテルを捕まえたい。

満たしてる物だから
捕まえるって少し違うのかもしれないけれど
そんなふうに思う。

どこにもない世界は
案外いつも目の前にあるのかもしれない。
この世界を満たすエーテルのように。

2014年3月2日日曜日

続・我が道を行く。

ここ数日間映像を編集し続けて我が道を行くということを
少し思い出した。

昔の映像の自分の喋り方とか
立ち振る舞いとかマジでイライラするんだけど!笑

でも大切なのはそれでも人が
集まってくれていたということなんだよね。


全ての人を大切にしたいといつの頃からか
考えるようになってた。

けど実際はさ、
こっちを立てればあちらが立たず。。ということになるわけ。

全員と仲良くする事ってまず無理なんだなというのが
ここ数年の答え。

だったら結局好きな人達とワイワイするしかないでしょ!◎

合わない人も合う人も
極力同じように接してきたつもり。

それがいいことだと思っていたから。

でもな、それ多分違うな、こりゃ。

俺が相手を尊重しているのは
俺の心の中での話しだし
それが相手に伝わっているとは限らない。

どれだけ相手を大切にしても
俺に失望する人もおるじゃろうしね。

相手が俺に過剰な期待をしてしまうのも
結局は俺がフラットに接してるから
なのかもしれない。


本当は俺はすごく自己中心的な人間なわけなんだけど
表面上だけではなく根本から変わり
人間的に尊敬されるような人になろうと思い
行動してきたんよね。

たくさん本を読んだり
実際にたくさんの人と会いコミュニケーションをとってきた。

ここ数年、どんどん考え方はフラットに
なっていったように思う。

でもちょっと待てよと。

フラットに考えるってことは
結局平べったく考えるということなのか?

平均的に人を見て
平均的に人と接する事なのか?

もともと差別はしない方。
偏見は少なからずあるだろう。
でも、理由も無くっていうのはない。

自分が気に入ってる人と
そうじゃない人で態度が違うのは
当然の事だし
会う頻度が違うのも当然なことだろう。

親友と知人で会いたいと思う頻度が同じな人は
そういないはず。


しかし、ここ数年
一部の人間と個人的に遊ぶということは
楽遊会の他のメンバーから
「なんで誘ってくれんの?」
って言われそうで控えてた部分もある。

でもそんなことしてたら
俺は一生友達なんて出来ないよね。笑


なんかね〜、
無意識のうちに自分を閉じ込めて
自分が不幸になってもいいから
周りを輝かせたいと
思っていたように思う。

何回も書いた事あると思うけど
結局楽遊会って
俺が人から理解されなくとも
好きな事をやる場所だったんだよね、
はじめは。

それなのにたくさん人が集まってくれだしたら
離れていってほしくないからって
媚び売ってたような気がする。

楽遊会の最初のほうなんてメチャクチャだった。
それでも個性的な人達が支えてくれてた。

俺が当たり障りのないような事を
言い出せばそりゃあ、離れていっても
しょうがないと思うし、
俺も俺でこうだと思ったら
誰のいうことも聞かない。


結局なにしてんだよって思う時もある。
俺が目立ってなんぼだろうが!って。笑

人に中心譲ってんじゃね〜よって。


なんかすごくバカバカしく思えてね。

今、このタイミングで
過去の映像を編集したりしてるのも
きっとこういう気付きをこのタイミングで
知るためだったんだ。


そして過去のメンバー、雰囲気を見てやはり思った。
俺は欠陥があろうが批判されようが
俺でなければならないのだと。

少なくとも楽遊会の中ではね。笑

もともと刺激の強い事が好きだから
今の時代でやりたいことやると
危ないかもしれんけど。笑


でも、突き抜ければきっと
笑ってくれる人も出てくるかな。
中途半端が一番いけんわ。


ちょっと、フラットな自分を
もう一度封印してみようか。。なんて思ってる。

そんなこと出来るのかどうなのかわかんないけど
そうしてみたいなって。

個人的な価値観で善し悪し
好き嫌いを選んだらどうなるんだろうって。

心の奥底にフラットな考えは
染み付いてる。

さっきも書いたけどもともと偏見とか
差別ってのはないほうなんよ。

ホームレスも同性愛も障害者もオッケー!
ただ、そのぶん人間性は見るよ!

全ては内面よ。
関わるかどうかはね。

外見が美しい人は大好き!
でも内面が腐ってたら消えろよって思う。

一緒におって不快になるわな。
 表面だけ取り繕ってるのが
バレバレな人も笑えない。


楽遊会はもともと独裁国家なんだよね。笑
だから成立してた部分が大きい。
俺がいいって言ってんだからいいんだよ!
で、やってた。

だから常識とかが入る余地がなくて
よかったんだよ。

常識とかけ離れた判断をするとね、
それはすぐ批判に繋がる。
そのことも知ってる。
だからいつからか守りに入ってたんかな。

常識的な組織なんてそこらじゅうに
いくらでもあるわ。

俺がやらんでもええよな、そんなこと。


ロケット花火で服を焦がすくらい
体はってるメンバーに
下ネタを絡ませながら大笑いする
最低で最高なのが楽遊会だったよな。笑

大人になりきれない大人が
夜な夜な集まって
どうしょうもない話しを一晩中する
そういうのが楽遊会だった。


ちょっと健全すぎるかもしれんね、最近は。


もともと俺自体社会不適合者みたいな人間なんだからさ
愛想笑いじゃ何も生み出せないんだよ。
誰の居場所も生み出せない。
自分のさえね。


俺は俺らしくあることが仕事だと考えよう。
自分の行動を制限するのが自分の組織だとしたら
それはただの不幸だ。

なんのためにやってんだよ。
腹から笑えるようなことするためだろ?

仲良しごっこするためじゃないだろ。
崇高な目的もいいけど
目の前のメンバーと楽しめなくて
何が社会貢献だよ!
ってね。笑

じぶんじしんにそう思うわ。笑


自己中心的にいこう!!笑
なかなか見ない宣言だよね。笑

何事も長所であり短所であるなら
振り切るまでやる!
そしたら何か見えてくるんじゃないかな。

平均的な事やってれば批判もないだろ。
でもさ、そんなことに意味なんてないんだよ。
ただいたずらに時間を浪費してさ。
無難な人を集めてなんになるっていうんだよ。

風俗嬢歓迎!
キャバ嬢歓迎!
同性愛者歓迎!
めんどくさい男お断り!
ネチネチしてる人お断り!
恩知らずお断り!
でええじゃん。笑

リスカしてようがどうしようが
そんなことは関係ない。
面白い人間ならそれでよし!だろ。

俺がええって言ってんだからいいんだよ◎

それでついてこれない人はついてこれなくていいです!と。


組織ってそういうもんだよね。
ちょっと極端ではあるけど
方針や理念に疑問を持ったり
ついていけないと思ったなら
組織を批判するのではなく
自分が去ればいいだけのこと。

ちょっと幅広く受け入れすぎたのかもしれない。
俺と価値観が合わない人を大量にいれても
俺についてきてくれるメンバーが
不快になるだけなんだよな。

様々な価値観が入り乱れると
マイナスな価値観が残っていく。

誰か一人でも大嫌いなメンバーがいれば
組織から大切なメンバーが去っていくということも
よくわかった。

だからこそ無駄にメンバーが多いのって
リスクも高くなるってことなんだよな。

組織の方針の段階で
ある程度ふるいにかけておかないと
大変なことになる。

あと、恋愛するのは自由だけど
男のせいで女性メンバーが
いなくなるのは防ぎたい。

積極的に女性メンバーの位置づけは
守っていかんとね〜。
俺が必要だと思えば女性を優先にすることも
出てくるだろうね。
当然だけど。


今年から方針を変えよう変えようと
思ってたけどなかなか動き出せなかった。

けど、それは色んなバランスを考えてのことだった。
以前、楽遊会は第二世代から第三世代に
変わります!みたいなことを言って
常連さんに「おい!」っていわれたことがあった!笑

でもそれくらい自分の中で
ガラッと勢いつけないと
出来ない事も正直あるんだよね。


俺が保守的ってどうなん。
絶対ありえんだろ!笑

常に革新的でないと楽遊会無理だわ。
かなり偏ってもいいからやろう。

映像って偉大だな。
写真ではその頃の会話とかは
残らない。

雰囲気だけ残すからいいという考えもあるだろうけど
俺は違うな。

音声も会話の内容も残ってるほうがいい!
しかし、編集はしないとダメだね。笑

面白くないとこはカットしないと!笑
また、それが出来るから映像はいいね◎

まさに思い出は美しく!!◎

楽しく美しく残るなら最高じゃん♪

数年後に編集した物を
みんなで見たり出来たらええよな。

オフ会の映像だけで30個くらいは
残ってた!
これは財産だな。

その他プライベートでメンバーと
遊びに行ったり
弾き語りメインの頃の仲間とかも
残ってたり。

その時の声、会話、雰囲気
そのまま残ってる。
もう二度と同じようには戻れない
前の家の映像とかもな、あるんよな。

2004年の映像があるということは
10年前から俺はずっと映像の可能性を
大切にしてきた。
手元に見つからないからあれだけど
2004年より前にも
ビデオカメラ使ってた記憶があるから
実際にはもうちょっと前からか。

意識してなければ10年前の映像なんて絶対残ってない。
逆にこれから10年経ったときに
現在の映像が残るかどうかは今の自分にかかってるんよね。

うん、間違ってなかった。
これからも我が道をいこう。
結局正しかったかそうじゃなかったかなんて
やってみないとわかんないんだから。笑

だとしたら保守的になって
縮こまってるより
100回失敗して
1回大成功したらええよな◎

世界にはもう数えきれないくらい人間がおる。
思っただけの人間を集められないなら
それは確実に自分が至らないせいだ。

街に出ればいくらでも人はいるわけだし
その人達の財布の中にはお金もある。
だからビジネスがうまくいかないっていうのも
ただの言い訳にしかならないんだよね。笑

人の心が動くか動かないか。
動かせるか動かせないか。
そこだよね。

全力でやっても動かせるかわかんないのに
自分という人間の持てる力を総動員させないと
無理だろ。

だとしたら、長所とか短所とか
なりふり構ってる場合じゃない。

圧倒的な長所(メリット)を
ニッチな価値観のもちぬしにでも
感じてもらえればそれは強いわな。

常識にとらわれてる人とか
細かい事を気にする人は俺は無理だから
そういう人に関わらずにいこう。

それが相手の為でもある。

どうしても関わらなければならない場合は
こちらが譲ろう。
相手を不快にさせたくはないし
自分が正しいなんて思ってはいないから。


人間なんて
何が正しくて正しくないなんて
本来ないよ。

だからこそ再び、引き続き、
我が道をいこうと思う。

2014年2月28日金曜日

プラスの力で全てを変える。

時々ね、思うんよ。

マイナスの力って強いよなってさ。

悪口や変な噂ってすごく早く広まるものだし
悪口を言う者同士って結託したりするじゃん??

人気者を潰すのって簡単なんだろうなとかね。。


でもなんていうんだろ、
マイナスの力を使って人を貶めることって
裏技を使ってゲームをクリアするのに
少し似てるというか。

裏技が存在してる以上それを使ってもいいだろって
思う人もいれば
裏技を使うのは卑怯だという人もいる。

何より俺はゲームがつまらなくなると思うんだよね。


スライムを倒すのに苦戦してるときもさ
後から考えたら、なんかいいじゃん?笑
一生懸命でさ。

それで徐々に成長してギリギリ倒せるか
倒せないかの敵と戦うから面白いんでしょ?

プラスの力でいくから面白いんでしょ。


マイナスや影は
プラスや光の副産物でしかないと思ってる。

この世界が光で満たされているように
きっと光の力、つまりプラスの力で
いくべきだと思うんだよね。


いつか振りまいた力ってのは
大きくなって戻ってくると思ってる。

プラスを振りまけば
プラスが大きくなって返ってくるし
マイナスを振りまけば
マイナスが大きくなって返ってくる。


短期的に見ればマイナスの力は強いけど
長期的に見ればきっとマイナスの力を飲み込んで
さらにプラスは増大する。

そんな気がしてるよ。

 

2014年2月22日土曜日

主体性とエゴ。

自分が「こっちの方が
いいだろう」と思う事と
現実っていうのには
時々ズレがありますよね。

例えば
主体性を発揮しなければならない部分と



でしゃばってはいけない部分の判断。。

こういうのは非常に難しい。

まさに、空気を読む力が必要なわけです。


自分で組織を立ち上げて
運営していく中では
とくにこの場面によく遭遇します。

トップが仕切りすぎると
メンバーは主体性を失い楽しめなくなる。

全く仕切らないと
いざ舵をとらないといけないときに
とれなくなる。

メンバーの主体性を失わず
組織として進むべき方向へ進もうと考える時
リーダーというのは皆悩むのかもしれない。

そう考えるとキチッとした
会社のように段階的な組織図を作っておけば
統率はしやすいのだろう。


昔からルールとかマニュアルとか嫌いで
そういうものがないところでやっていきたいと
思ってた。

でももしかしたらそれはとても少数の人間なのではないかと
考えだしたのは実はつい最近なんだよね。

俺が思う事がみんないいって賛同してもらえるとは
思ってないんだけど
それでも絶対こっちの方がいいだろう!って
自信を持ってることはいくつかあった。

まさかそれが少数であるなんて考えもしなかった。


誰かから言われるわけではないんだ。
それこそ空気を読んだ時にさ
感じるわけ。

誰もが自由を求めてるわけではないのだと。
思い知らされるわけ。

究極の価値観の違い。

しかし、同時に思った。
誰もが俺が求めるような自由を求めた場合
まず、組織として成り立たないよな。。と。


時々出てくる、「なおきち」の立場になろうとする人。
本人自覚ないのかもしれないけど
女の子はそういうのすごく敏感に感じてるんだよね。

あの人なんなの?
なおきちさんになりたいの?

なんてのはここ何年かよく聞く。


俺の真似をすれば俺と同じ事が
出来るわけではないんよな。

とくに俺の組織の中で
俺の位置づけになろうと無意識にでも
考える人間は
反感をかってる。

まあ、当然ではあるんだけど。


楽遊会の中では
メンバーの面白さを
俺が見つけて賞賛することがよくある。

そしたら一気に輪の中心になる。
そうなった時に今までの人間関係のやり方では
成立しなくなり
精神的に押しつぶされてしまい
結果、楽遊会から去るというのがあった。

今まで友達がたくさんいた人でも
通常同じジャンルの人間が
周りのほとんどなのに
楽遊会の場合は価値観も状況も
様々な人がいる。
だから少数合わない人がいても
精神的に苦しくなり
どこかに行ってしまう人がいるんよね。

なおきちさんの事は嫌いではないんだけど
メンバーのあの人が来る限りいかない。。
みたいなのは昔からあること。


逆に、今まで友達がいなかった人が
一気に輪の中心になったとき。
これもやはり精神的ストレスはあるみたい。

メンバー同士で個人的に遊びだすと
俺の目が届かなくなり
トラブルもよく聞く。

その結果、メンバーが気まずくなり
こなくなったりする。

そういうのはどこにでもあるんだろうけど
正直嫌なんだよね。

まあ、それも俺が統率出来てない証拠ではあるんだけど。


もともと楽遊会は個人的な集まりだった。
正直、俺の居場所を増やすことが目的だった。
当時、弾き語りしてたから
そこに居場所はあったんだけど
もっと違う人達と関わりたかったのもあってね。

で、たくさん人が集まってくれるようになり
俺の居場所とメンバーの居場所になった。

誰もが自己顕示欲というものを持っているので
面白いメンバーを中心に置けば
メンバーも楽しいだろうしいいだろうなぁと思い
もともと社交的じゃない俺は一線から退こうと思った。

しかし、よくかんがえたらこれが間違いだったのかもしれない。

もともと
弾き語り
ハンドメイド
写真
等、俺の能力をフルに活かして
俺が中心として
自分の魅力も含め人を集めていた時と
何かが違うような気がしてる。

いつからか
楽遊会は個人的なものではなく
「みんな 」のものだと俺が思うようになり
遠慮もうまれるようになった。

自分より相手を優先する事も増える。

そうなった時に楽遊会としての
主体性はどこにあるのかと。

そう思った。

考えたけど
どこにもなかった。。


やはり当然だけど
俺が中心になって
俺の力で
俺の魅力で
人を集めていかないと
尊敬もされない
感謝もされない
何も無い
魅力も無いような組織に
なっていってもしょうがないと思った。

いつからか
俺の組織なのに
俺が主体性を発揮する事が
エゴなんじゃないかと
心のどこかで思ってた。

わがままを出す事が恐くなっていたのかもしれない。

でも我が侭と主体性って紙一重なんだよね。

結果、良質なメンバーが増えれば
俺がどれだけ主体性を発揮しても
現存のメンバーにとってのメリットは大きいわけだし
統率もとりやすくなる。

少し前にも書いたけど
リスペクトし合えない関係に意味なんてないんだよ。

無駄だし魅力的ではない。


小規模の戦略をずっと引きずったまま
ここまできてしまったのかもしれないと
反省してる。

人の意見を聞く事は確かに大事だよね、
でもさ、人の意見を聞いていなかった時代の方が
うまくいってた現実ってどうなんだろ。

また、正しい意見をとりいれまくるとさ
短所のない、しかし長所もない
平均的な組織になると思った。

それよりは
メチャクチャ変な組織で偏ってるけど
メチャクチャ魅力あるとこの方がええよな。

どうすれば批判されないかということを考えるんじゃなくてさ
どうすれば面白い事が出来るかってことを
考えたらええかもな。

組織が大きくなれば
俺だけでは責任がとれなくなることも多くなる。

そして大きくなれば比例するように
批判や否定の声も大きくなる。

その全てに耳を貸す事が
リーダーの役目だと思ってたけど
それはクレームセンターの役目だよな。

俺がエゴだと思っていたことは
実はとても必要だったのだと今思ってる。

押しつけにならないように。。
なんて考えながら走ってきたけど
そんなんじゃベストは出せない。

俺はこうだ!
気に入ったやつはついてこい!
気に入らないやつは去ってくれてかまわない!
っていうスタンスじゃないと
結局わがままな俺は
何も動けないんだろうな。

なんかそう思ったよ。
自己中人間がさ
周りに合わせようとするから
変な事になるんだ。

自分が属する側の人間なら
しょうがない。
我慢するしか無い。

ただ、俺は立ち上げてんだ。
本来誰のいうことも聞かなくていい!

誰かの言いなりになるのが嫌だから
我が侭に生きたいから
自分で立ち上げたんだろ?

誰もついてきてくれなくても
1人でやるだけの覚悟は
最初からあるだろ?

だったらそれが答えじゃんって話し。


価値観合わない人間も含め
たくさん集めても結局それは
批判を集めてるだけだよな。笑

価値観合わない人は最初から
入らない方がいいわな。
それがリスペクトしてくれてるメンバーを
守ることにもなるわけだ。

ハードルは低く保つよ。
けどな、俺を嫌いな人は
いつでも去ってくれというスタンスでいこう。

引き止める理由はどこにもない。
去っていった人に使うはずだった時間を
大切な人達に使えば一番ええよな。


俺自身嫌いな人はそんなにいない。
けど、だからといって
俺が嫌われないということではない。
もちろん、構わない。
さみしいけどね。笑

でも、それを恐れてたら何も進まない。
もともと狭く深く関わる人間だもんな。
俺が大好きな人達が俺のそばにいてくれれば
俺は幸せだ。笑

はい、でた!
自己中!笑

人間そんなもんでしょ。
出来るだけたくさんの人の居場所を作ってやりたいよ。
しかし、居場所を提供しようと思ってる相手から
嫌われてまで作ろうとは思わない。笑

全ての人が幸せになったらいいと思ってる。
でもよく考えたら俺のそばじゃなくても
世界は広いし幸せになれる場所なんて
いくらでもあるんだよな。

全ての不幸な人を良い方向に
導いてあげることが出来たら本当にいいけど
まだタイミングじゃない人だっておるしな。
巡り巡ってまた出会って
そのときタイミングがくるかもしれんしな。


俺が自分の居場所を作ろうと思い
楽遊会を作り
その中でみんなの居場所を作ろうと思った。

その理由はさ、
誰もが居場所があり
安心して眠れる場所があり
美味しい御飯が食べれること
それ自体が俺の幸せでもあるんだよね。

だからこそ楽遊会の中に
みんなの居場所を作りたいと思った。

子供がさ、
幸せそうに眠っていたり
楽しそうに遊んでいたりしたらさ
それだけで嬉しくてかわいくて幸せになるじゃん?

あれを子供だけではなく
俺は大人にも感じるんだよ。

ひとりぼっちだった人に友達が出来たら嬉しいし
うまくいかなかったことがうまくいったら嬉しい。

他人はな、
自分の一部なんだと思う。

だから本気で腹も立つ。
自分のことのようにな。
だって、自分の一部だもんな。

同じように
俺もみんなの一部なんだと思ってる。

たくさんの自分の欠片を集めるように
楽遊会は未だ見ぬ「もとの姿」に
戻っていけたらいいな。

2014年2月20日木曜日

下書き保存の蓄積。

このなおきちずむ。をはじめて
どれくらい経っただろうか。

正直意識してない。
日々の直感やひらめき、
思想を残す事にただ没頭していた。


書きながら途中でやめたものは
全て自動的に下書き保存される。

それらを公開するには
気持ち的に少し憚られる。


マイナスな要素を含む事や
主観が強すぎるもの、
タイミングを逃したもの達。

その言葉はデジタルとして
行った事もない見た事も無い
企業のサーバー上にひっそりと眠る。

日の目を見る事も無く。


よく考えれば不思議なものだ。
個人のなんでもない思想を
個人が家でパソコンを打ち
おそらく海外のサーバーに
無料で蓄積していく。

そんなことに想いを馳せると
まるで宇宙について考えてるような気持ちになる。

自分の想像の追いつかない世界。
しかし、現実にそれが成立してんだよな。

知らないことばかりだ。

一生かけて色んな事をかじって学んでも
この世の全てを知る事は出来ないし
この世の全ての人に会うことも出来ないんだ。。

そしてこうしている間にも
どこかで誰かが死に
二度とあえなくなっていく。


あまりにも多すぎて速すぎて
どうしたらいいのか
時々わからなくなるんだ。


そんな時決まって思うのが
とにかく一日を濃く生きよう。
好きな事をしよう。
好きな人に会おう。
長所を伸ばす事に集中しようということ。

短所を補う事も大切なのだろうけど
長所を伸ばす為にも使える時間を
短所を補う事に使えば
平均的な人間に近づくということ。

しかし、価値はそこにはないと思ってんだ。

オリンピックだって
短距離走者は延々短距離走を極めるから
すごいわけであって
片手間でいろんな種目をかじっても
どこかで突出した結果なんて
出せないよね。

一つを極めるからすごいんだ。

一つを極めるという事は極端に言えば
他の事がおろそかになってもいいから
その道を極めるという事。

短距離走のトップが
水泳出来なくても大した事ではないし
短距離においての価値は全くさがらないんだよね。


同じように自分の強みを把握して
そこを伸ばしていく事が大切かな。


自分の理想な報酬プラン、ライフスタイル、
全てにおいても我が侭でいい。

我が侭でいいし人に批判されるような
自己中心的だと思えるようなものだとしてもいいから
それを実現出来るようなアイデアを見つけよう。

そこが大切だと思ってる。

どんなことでも新しいものは
批判されるんだから。

もしかしたらあなたの中に浮かぶ
アイデアは批判されるかもしれない。

でも、それは見た事も聞いた事もないものだからかもしれない。

全ては結果。

結果を出してしまえば
周りは徐々に静かになる。

批判の声が声援に変わる瞬間。

人間なんて勝手なものだしいい加減なものだよ。
そんなものに振り回される必要は無い。

批判する人は批判することにおいて
責任を持とうとすら考えていないのだから。

あなたはあなたの人生において
責任を持たなければならない。

だとすればどちらが大切かは
自ずと見えてくる。



人生プランを「下書き保存」で
終わらせるようなことだけは
したくないよな。

2014年2月19日水曜日

形の無い幸せの形。

ライフスタイルや
収入を得る方法、
自由の定義等
様々な事が多種多様な時代になりました。

ドライになった部分もあれば
ネチネチするようになった部分も
あるように思います。

その全てに文句を言うより
自分の理想と照らし合わせ
どうすればいいのかを考える事が
建設的だと日々思っています。


過去の常識を
今も引きずっている場面は
思いの外多い。

それが悪いと言いたいのではなくて
俺の価値観の中では
ちょっと理想とズレてしまうので
個人的な視点で書いてみようと思っています。

友達
恋人
結婚相手

今はこれに当てはまらない関係性っていうのもあると思っています。
関係性はグラデーション。

知り合いから友達になっていくのが
グラデーションのように
正確に関係性を示す事は出来ないと思っています。

また、無理にあてはめる必要もないと思っています。

男性も女性も
自分で自分の収入を得る事が出来るようになった時代。

結婚だけが全てではないと思うし
子供がいることが偉いということにもならないと思っています。


大切なのは自分で選択するということ。
選択肢がないのであれば
選択出来るように努力をするべきだと思っています。

何が偉くて
何が劣っているかなんて
関係性においてはないと思います。

結婚してれば勝ち組
出来なければ負け組なんて表現が
流行りましたが
それもナンセンスだと思いますね。


新しい関係性はどんどん生まれると思います。

結婚しているのに別居で幸せに暮らしたり
籍を入れずに一生過ごしたり。

そういう曖昧な関係性を
悪く言う風潮があるけれど
本人同士がそれを求めているのであれば
それを周りがどうこういう必要は無い。

結婚したってかなりの確率で
離婚する時代です。



幸せの形も一概には言えないし
お金でもはかれない。

お金をたくさん持っていても
孤独な人はいるし
お金がなくても毎日最高に笑ってる人だっている。

幸せの形でさえ常識が適用されることさえあります。

いい学校に行き
いい会社に勤め
若くして結婚して
子供が出来、
マイホーム
マイカーを持つこと。

これはなんだか常識的な幸せのような気がしています。


人によっては
結婚をせず
子供も作らず
お金はないけど
我が侭に生きていく事が
最高に幸せな人もいると思います。

そういうのは大人になりきれない大人だと
烙印を押されてしまいそうですが
じゃあ、誰がその烙印を押すのかというと
「管理する側の人間」だと思うんですね。


思えば俺たちは
管理しやすいような常識を
子供の頃から
疑問を持たずに染み込まされてきた気がします。

人間の価値観が多種多様なように
幸福の条件も多種多様で当然であり
そこに結婚やお金っていうのは
必須項目ではないと思うんです。

もちろん、社会のバランスを保つ為には
常識的な教育というのは必要だとは思うのですが
結婚出来ない事やお金がない事で
死ぬ程悩んでいる人がいるのも事実。

そんなことで死んでしまうくらいなら
もっと気楽に生きたらいいんじゃないかと
俺は思ってる。


偏見を持たれてしまうような生き方を
選んだ方が幸せな人もいますよね。

罪悪感を抱えながら生きていくよりも
これが自分の幸せだと堂々と生きてほしい。

もちろん、人に危害を加えるような事は
いくら自分の幸せだとしても
よくないと思います。

出来る限り物事をフラットに考える俺でも
そこは譲れない。

なぜなら自分が幸福を追求するのと同じように
他の誰かも幸福を追求しているのだから。

共存していけることは必須条件。



形のない関係性
形のない幸せ

それらを選ぶのは自分次第だし
常識的な善悪を一旦外して
本当は何をしたいのか
考えてみる事を
全ての人に提案したい。

2014年2月15日土曜日

アスリート用の筋肉。

例えばさ、
ボルダリングする人にはボルダリングする人用の
筋肉がつくと思うのね。

水泳選手には水泳をするのに適した筋肉がつくし
100m走の選手にもそれに適した筋肉がつくんよな。

面白い事に走ることだけに関しても
長距離と短距離では筋肉の付き方が違うし
マラソン選手とボディービルダーは
全然見た目から違ってくるんよな。


だからさ、
何が言いたいかというとね
好きな事ずっとやったほうがいいって言いたい。

ここからは俺の持論なんだけど
脳に筋肉みたいなのがあるとしてさ
写真撮るには写真撮る用の、
ギター弾くにはギター弾く用の何かが
あるんだと思うんだ。

だから、
やりたいこといつもやってないとさ
感覚が鈍るというか
下手になるというか。
最悪の場合本当にやりたいことか
どうかとかもわかんなくなっちゃう気がするんだ。

それはとてもこわいこと。

例えば写真撮るにしても
好きな写真を撮るべき。

見たくない物や撮りたくないもの、
残したくないものはとるべきじゃないと思う。

ギターでいうと作りたくない曲は作るべきではない。

生まれてくるもの全てに命があるとするならば
それは人間だけではなく
意思はなくとも「不幸」だと思うんだ。

もちろん副産物的に
たまたま生まれてきたものを愛してくれる人も
いるかもしれないけれど
本来の主旨とは違うはずなんだよね。

総合的に考えて
好きな事を好きなようにやるべきだと思ってる。

嫌いな事で成功してしまった人は
俺は不幸だと思ってんだ。

たまたま才能あって
何かで成功したとしても
望んだことでなければ
例えどれだけお金をもらえても不幸だと思う。

望んだペースで望んだ事を
望んだようにやれることが一番気持ちいいよな。


あと、
だらけてると体と同じで
脂肪がついてくると思う。

中学校バスケ部 だったときにさ
一日休んだら三日戻ってしまうっていう
話しを聞いた。

1日休んだら3日練習しないと
休む前の状態には戻れないと。

極端な話しかもしれないけど
そういう感覚は確かにある。

体だけではなく脳もそうだと思う。

だから、好きな事と関連してる仕事についたり
好きな事を毎日出来る時間が作れるようにしたり
好きなものに触れている努力って
必要かなと思う。

だからこそ、やりたいことは
好きな事じゃないとダメだと思ってる。

義務では続かないでしょ。

こうしたほうがいいんだろうなぁ。。と思っても
好きな事じゃないと腰が重いもんな。

自分が向いてることで
好きな事で
人から求められること。。
となるとかなり限られるかもしれないけれど
誰にだって必ずあるから
まだないひとは
焦らず探したらいいと思うんだ。

もうやりたいことある人は
詳しく俺にも聞かせてほしいな。

人の夢の話しを聞くのは好きだから。


俺も日々
なおきちがやるべき事の
筋肉をつけていこう。

2014年2月14日金曜日

リスペクトし合えない関係は意味がない。

この世の中ではさ、
何が正しく何が間違ってるとか
正直俺はないと思ってんのね。

同性愛だろうが
障害者だろうが
ようは本人次第で
他のやつがどうこういうことじゃないと思うわけ。

何不自由なく生活してる人でも
腐ってる人はいるし
障害を抱えてる人だって
人一倍結果出してる人もいるし
ゲイの人だってレズの人だって
たまたま恋愛対象が同性なだけで
ただそれだけでしょ?

そしてそこに偏見を持つ人も俺は
ある意味自由だと思ってる部分がある。

同性を愛するのは自由なのに
同性愛者を差別する人はおかしいなんてのも
価値観の押し付けな気がしてね。

たまたま俺は偏見がないだけであってさ。


究極まで自分の視点をフラットに持って行きたいっていうのは
やっぱりどこかしらあんのね。

悟りたいというか、
自分なりの絶対的な答えを何事に対しても
もっていたいの。

そこには全て理由が存在して
未熟であろうがなんだろうが
俺の意見だと言えることをさ、
一つは用意しておきたいんだ。

全てをこうして書けるなんて思ってない。
色んな人がいるからね。

でもさ、本気で知りたい人は聞いてみてよ。
直接さ。

今、こういうので悩んでんだけどどう思いますか?とか
なんでもいいからさ。



なんかね、
学生時代とかもそうだったんだけど
俺リスペクトしてる人以外正直どうでもいいと
思ってる部分があって
どうでもいいってのはないがしろにしていいとか
そういう意味でなくて
関わる必要がないというか
価値観なんて究極いってしまえば
平行線なんだから
それだったらお互いいい距離とって
楽しくやっていきましょう的なね。

無理に戦争する必要はないと思ってんだ。
相手を不快にさせることも極力控えるべきだと思ってる。
そういうのは望んでないからね。
やむを得ない時はしょうがないけどね。笑

それでさ、
俺は好きな人と一緒にいたいわけ。
人間的にね。
男女問わずリスペクト出来る人間と一緒にいたいわけなんよ。

俺、こいつのここが大好きだわ!って
誰に対しても堂々と言えるようなさ。

だから俺の事嫌いな人は俺と関わらないでほしいし
俺の組織の中には1人も入れておきたくないんだな〜。

最近、特にその気持ちが強くなってきてるように思う。
まあ、当然といえば当然なんだけど。笑


今年の俺はちょっと我が侭にいこうかな。笑
自分主体でさ。

バランスがどうとか考えてるから
逆に変な事になったりするんかもね。

思った通りにさ、メチャクチャやってればさ
それが好きなやつは残って
嫌いなやつはついてこれなくなって
消えていくよな。


全員を大切にしようとすることは
全員をそんなに大切に出来ていなかったのかもしれない。


リスペクトし合える関係しか
今の俺には意味が無い。

俺を嫌う人は去ってくれていいと今は
はっきりそう思ってる。

そして残ったメンバーで何か楽しい事をしたいなってね。


数年前に「濃いメンバー」って言ってたのを思い出した。

そうそう、濃いメンバーを求めてんだ俺は。
そして女子メンバーに力を入れてた。


俺の人生半分くらい女性に助けられてるように思うんだわ。
しかも、「男嫌いの女性」に助けられる事が多い。

ありがたいこと!
女性の方が感性が合うんだよな。
なんか柔らかいというか優しいというか
女性は思いやりがある。
いや、それだけではなく計算高いところもあったり
弱いところもあったり男なんて到底勝てないと思うくらい
強いところがあったり色々!
色々だから面白いし飽きないしいい!!

女性が思う存分活躍出来る場所を作りたいな。

そしたらもっともっと楽しくなるし
世の中わくわくすることが多くなる!
女性の勢いって本当すごい。
見てて面白い。

とりあえず陰口言われるような関係性を作らない自分でありたい。
せめて自分の組織を通して出会った人くらいは。
自分の組織の中だけは。

全ては己の改善で解決出来るはず。
人のせいにせず
言い訳せずやっていこう。

心からリスペクトしてやまない人間と
テンション上がることやっていきたいな。

2014年2月12日水曜日

弱者の戦略。〜小さな実績をまず作る。〜

俺はいつも何もないところから
スタートしてきた。


楽遊会だってミクシイはじめて
ソッコウでまずコミュ立てて
それからどうするか考えてた。

行動しなければスタート地点にも立てないんだよな。


それでさ、
実績も何も無い、
コミュニティのメンバーも全くいない状態から
スタートしてどうやって結果を出すのか。

弱者はいつだって
軽くあしらわれるし不利な立場に
おかれることも少なくない。

そこに疑問を持ってもしょうがない。
世の中ってそういうものだから。

そこを変えようとするよりも
自分のアイデアで
不利を有利にチェンジする方法はないか
考える方が建設的。


話しを聞いてもらうには
相手にとっての圧倒的なメリットが必要。

弱者は「対等」ではダメなんだよ。
そんなぬるい事いってたら
いつまでも結果なんて出せない。

どんなことでもそうだけど
相手に自分が受け取る10倍の価値を
受け取ってもらうことを
最初は意識したらいいと思う。

そしてどんなに小さな実績でもいいから
数字でちゃんと実績を作り証拠を残す事。

映像でも写真でも文章でもメディアでもいいから。


何も無いところから何かを作る作業は
雪だるまを作る事と似てると思う。

小さな手のひらにおさまる程度の雪を丸めて
それを転がして大きくしていく。

だから、まず核となる手のひらサイズの雪、
これがないとスタートは出来ないわけなんよな。

この手のひらサイズの雪にあたるものが
小さな実績であったり
相手に10倍の価値を受け取ってもらうという
精神姿勢だったりするわけなんだけど。


まずは小さな実績を作るところから。
そしてブランディング。

価値を生み出し発信し評価してもらう事で
はじめて価値は数値化されると思ってる。

自分を最大限魅力的に見せる方法。。
現代ではSNS、ブログ、ホームページ等も使えて
動画や写真を効果的に使いより魅力的に
見せる事が出来るようになってる。

ソーシャルメディアの力を磨く事は
夢追い人全てに共通してお勧めする。

こんなに便利な時代は無い。
パソコンで誰でも自分の情報を発信出来る。

どこかに所属するよりも
俺は自分で自分の組織を立ち上げる事を
お勧めする。

でも、誰もがリーダーになれるわけではないので
自分自身はどういった性質の人間なのかを見極めて
最高の二番手を目指すのか
リーダーとして道無き道を切り開くのか
縁の下の力持ちとして活躍するのか
本領発揮出来る位置づけを目指すべき。

組織に属するなら
その組織の方向性やコンセプトに自分の夢は合うのか
考えてからの方がいい。

じゃないと全力を注げないしね。
メンバーはさておきリーダーに共感出来るかどうか。
それは大切。


グループや組織として
個人では作れないような実績をみんなで作るってのも
ありだと思う。

弱者の戦略、俺が意識してるのは
どんなに小さくてもいいから実績を作り
ブランディングに活かす事。

特技がないからといって自信を失う必要は無い。

特技や夢がないからといって
自信を見いだせない人って
世の中結構いると思うんです。

俺は運良くやりたい事も
普通の人よりは出来る事もいくつかある。

けど、それがえらいだとかすごいだとかは
全く思ってなくて
上には上がいるし果てしなくすごい人は存在してる。

自分に対しては少しくらい人より出来ることがあっても
結局一位じゃないと自慢出来ないと思ってるから 。


大切なのはさ、
スキルのジャンルやレベルじゃないと実は思ってて
本当の本当に大切なのは
自分が身につけたスキルが
人の役に現在たってるかどうかなんだよ。

人の役に立ててはじめて
「価値」があるということになる。

履歴書に書く為にとる資格とか
俺からしてみればマジどうでもよくて
じゃあ、そのスキルを使って社会や人に
どう貢献出来るのかって話しで
そういう話しが出来ないのは
ちょっとさみしい。

人に言われたから。。とか
みんながやってるから。。とか
そういうのもどうでもよくて
じゃあお前はどうなんだよって話し。


誰かの為に自分は何が出来るのか。

特別なスキルなんていらないよ。

おばあちゃんがさみしいと言えば
自分の事のようにお話しを聞いてあげられたり
つまらなそうな顔してる人を
笑わせられるだけでもいい。

誰かにとって
一日が終わる頃
「ああ、なんだか今日はいい日だったな。」
って思ってもらえるその一つの要素として
自分が存在してればそれでいいんだ。

2014年2月4日火曜日

続。



人間的なレベルについてよく考えます。

僕の場合、今もじゅうぶん愚かだと思いますが
若い時はもっともっと愚かでした。

誰の言葉も届かない程に。


色んな 経験をし上辺や表面だけではなく
「根本」から変わろうと思ったのです。

それから人間的なレベルはあがっていったように思います。


表面上だけうまくやろうとするあざといやつのやり口は
意外と見破られています。

何故なら、僕を例に言えば
僕自身が昔あざといやつだったから。


気持ちもわかるし、心理状態もわかるのです。
だから、相手が表面上隠したつもりでいても
はっきり見えてしまう事があります。

そんなときは、笑えません。笑


極論として
表面上、上手く出来るように見せることや
自分を大きく見せることには何の意味もない。

自分よりもレベルの低い人は騙せても
レベルの高い人は騙せないのだから。

それよりは不器用でも一生懸命生きている人の方が
かわいらしいし好き。


僕が理想として考えていた「自由な国」というのは
一つ落とし穴があることに気付きました。

その国に住む住人が全員
一定以上のレベルじゃないと成立しないということ。


悪口や噂好き、口が軽いやつは
トラブルしか生まない。

そんなやつは火の無いところに
ケムリをたてるんだよね。

それで相対的に自分を優位な位置に
持っていこうとする。

そんなやつがいたら何やってもうまくいくはずがない。

生まれてきた芽を枯らせるような人間が
一人でもいれば成立しない。


そのことに気付いた。

誰にでも見返りを求めずその人に友達が出来ますように。と
行動してきても結局妬みかなにかわからないけど
わけのわからない噂を流したりする人がいれば
組織だってうまくいかなくなる。

まさに百害あって一利無し。


嫌われる人には嫌われる理由がある。
友達がいない人には友達がいない理由がある。

その理由を無視して友達を作ってあげようと
していたのかもしれない。

その結果何度裏切られてきただろう。

全部「いいよ、いいよ」で済ませてきた。
それが美徳であり器だと思っていたから。


しかし、甘やかす事は堕落した人間しか
生み出さないのかもしれない。

甘えた気持ちが恩を忘れさせ
影で恩を受けた人の悪口を言わせるのであれば
それは断つべき。


自分のことはいい。
俺は確かに適当な人間だし
どうしょうもない部分もある。

けど、仲間の悪口やうわさ話を
面白おかしく影でやってるやつは
俺の組織には必要ないな。

他人は他人、自分は自分でしょ。


人の事はどうでもいい。
自分がしっかりしてればいいだけでしょ。

人を批判する時間があるなら
自分を磨く時間にあてたほうがいい。



尊敬出来る間柄じゃないと
仲間とは言えないな。

日々勉強だな。
どこかで全ての人を救えるような人間に
なりたいと思っていたんだ。

でも、愚かなまま救われたいと思う人間にまで
手を差し伸べる余裕は自分にはないのかもしれないと思った。

俺だって完璧な人間ではない。
だから成長したいと望みその為に行動をしてる。

同じように現在、どんな人間的レベルであっても
成長を望む奴らとは共に生きたい。

しかし、成長を止め愚痴ばかり言い
現状に満足し人を批難し
足を引っ張り人に自信をなくさせるような人に
使う時間や労力はない。

俺には一緒に成長したい仲間がたくさんいる。
自分の事を後回しにしてでも
人を想いやれる心を持った仲間がいる。

そいつらにもっと集中して時間を使いたいと思った。


人はいつか、離れていくかもしれない。
今、慕ってくれている人達も
もしかしたらいつか捨て台詞を吐いて
消えるかもしれない。

それでも今俺がそいつらを好きなのなら
全力でやればいいだけだよな。

それが本当に見返りを求めないということだよな。

後の事はわからんよ。

今後どうなるかなんて知らん。


けど、どうしょうもなく人間を愛しく思う気持ちが
生まれることがある。

丸い気持ちになれることがあるよ。


俺は思った。

俺が関わりたい人と関わろうと。

なんだかすごく当然な事のようだけど
俺にとってはなかなかたどり着けなかったんだ。

昔は当たり前に出来てたはずなのに。


そして俺を慕ってくれる人を仲間におこうと。

これも当然で俺の事を嫌いな人を
無理に引き止める必要も無いし
居てもらう理由も無い。

だから、俺の事を嫌いな人は
俺の組織に残り悪口を言い続ける必要もなくなる。

俺の悪口を言ってる人が居て
悪口を言わせてしまってるのは俺だと思ってる。
だから申し訳ないなと。

本人も苦しんだだろう。
それを理解してほしくて伝えているのだろう。
そんなマイナスな感情からは
解放されたほうがいい。

そして関わらないのが一番いい。


人生において誰と関わるかなんてじゆうなんだから。



なおきちの組織に所属するメリットは受けたい、
でもなおきちは嫌い。
もしそんな人がいるのであれば
自分で組織を立ち上げる事をお勧めする。

そこでどんなメリットだって生み出せばいいし
自分のルールでやればいい。

俺は俺の組織の中で自分のルールでやってるだけだから。



この10年人を許す事を練習してきた。
どうしても人を許すのが苦手だった。

だから、なんでもオッケーっていうキャラできた。
その結果、だいぶ心はゆるくなったけど
そのゆがみが出てきてる。

昔の俺だったらすぐに噛み付いて
なめられることはなかった。
その代わりとっつきにくかっただろうね。

今の俺はほとんどの事は「いいよ、いいよ」で済ますけど
調子に乗るやつもいるしなめられる。

なかなかバランスよくは出来ないものだ。


利用してやろうという人間は顔にそう書いてある。

俺が見返りを求めないのをいいことに
言いたい放題の人もいる。

どれだけ時間と労力を使っても
言い訳ばかりして先に進まない人もいる。


その人達は最初からそうだったんだ。
自分がわかってて首を突っ込んでんだから
その人達が悪いとも思わない。
ただ、勉強した。


人間とは扱いづらい生き物だ。
自分自身に対してよく思う。

我が侭で貪欲でどうしょうもない。



自分の意見は貫きたい、
でも努力はしません。
反対意見は出します、
けど、建設的なアイデアは出しません。

なんて人はざらにいる。


昨日言ってた事を今日覆す人だっているし
何を信じて何を疑えばいいのかなんて
わからないよね。

そんな中で
人を責めずに自分を改善することで解決出来ないだろうかと
考えついた。

ほとんどの場合、相手がどれだけ悪く思えても
自分の人間的なレベルが高ければ
防げたりするように思う。

なにごとも言い訳にはならない。

相手を責めるより自分が成長しようとよく思う。

人に期待しない。
とても冷たいように感じるけれど
人に期待してしまうとイライラすることが多いのも事実。

自分は自分のやるべきことをきちんとしていれば
それでいいだけだ。
人が出来ていない事を無理に責める必要は無い。

その人にはその人のスタンスがあるのだから。

自分にだって未熟な部分があるよね?
だから、お互い様なんだ。



あまり辛辣なことは書きたくない。
自分の心も少し不安定になるしね。

しかし、ちょっと自分を変えないといけないと
直感が言ってる。

居心地が良すぎるくらいの人間を目指してたけど
それだけではきっとダメなんだ。

また成長しよう。
様々な価値観を吸収して
思考の習慣を変えよう。

2014年1月27日月曜日

恩を絶対に忘れない人。

人との関わり合いの中で
感じる事があります。

僕の場合、人にすることは
見返りを求めずにすると公言しています。
実際、そうしています。

誰かと接する時、
この人に対して自分が出来る事はないか、
お役に立てる事はないか。。
そんなふうに考えます。

見返りを求めない分、
自分自身も自分のペースでやることが多い。

もう、それが習慣化されているので
誰に何をしてあげたとか
いちいち覚えていない。笑


だから、なおきちさん、いつもありがとうございます。
って言われても、俺、なんかしてあげたっけ。。

。。。あ、あれのことか。

ってなる。 笑



感覚的に思うのです。
ちょっとスピリチュアル的な話しになってしまうのですが
「自分も相手もない」と。
地球にダメージを与えれば人間だって困るのと同じで
相手にダメージを与えれば
自分にだって不幸が訪れる確率は高くなる。
逆に、相手にプラスな事をしてあげると
自分にとってチャンスに巡りあえる確率は高くなる。

「運」って、くじをひいたり宝くじを買うのとは違って
積み上げれるものなんだと思っています。

ほとんどの場合、チャンスは人がくれます。
いつもお世話になってる人と嫌いな人、
自分だったらどっちにチャンスの話しを
もっていきたいか。。

やはりお世話になってる人ですよね。
では、チャンスの話しをふるなら
見返りを求めて行動してる人か
そうじゃない人か。。

そんなふうに考えていけば簡単にわかること
なんですよね。

見返りなんて求めるまでもない。

人間の心理なんて法則や本質に比べれば
本当に小さな物。

意思の力は必要だけど
本質を知れば川が上から下に流れていくように
変わる事の無い力を知り
心穏やかにいられるようになるのです。

なるようになる。

成る可くしてなる。

全ては「当然」のこと。



だから僕は本質について
色んな人に教えたい。

心が楽になるし
悩みのほとんどは解決するような気がしています。

僕自身、誰かに教えてもらったものではない。
自分で探したくさんの本を読んできた結果
蓄積した価値観を自分なりにまとめたもの。


最近、恩について考えない人がすごく多いような気がします。
僕は見返りなんて求めていないので
自分がしたことに対して相手が恩を返さずとも
そういうことは考えません。
それとこれとは別だと思っているからです。
しかし、本質とはズレているということは感じます。

怒らないからいいや。
細かく言われないからいいや。
利用しても何もいってこないだろうからいいや。

そういう精神姿勢ってのは透けて見えます。
もちろん、僕は何も言いません。
その代わり、今後その人の優先順位は下がります。

だって、僕にはたくさん貢献したい人がいるんですもの。


恩を忘れ影で悪口を言う人もいます。
感謝される事はあれど
悪口を言われる筋合いは無いと思うけど
その人の中にマイナスの感情があるのは
確かです。

嫉妬、妬み、そこからくる憎悪の気持ち。。
本当はそんな苦しいもの持たなくていいのに
自分に自信がないから
無駄に攻撃しようとするのですよね。

あと、人の悪口を言って
相対的に自分の価値を高めようとする人もいます。

こういう人も愚か。


あと、何故か僕の立ち位置になろうとする人さえいます。笑
僕と同じような言動、立ち振る舞いをして
僕の組織の中で立ち回ろうとする人。笑

これに関しては「誰が」するかによって
結果は大きく違うという観点を忘れているのだろうなと思います。

僕がするのと違う人がするのとでは
大きく意味合いが変わってくることって多い。

僕が許されるからといって
違う人が同じ事をすればメンバーから変に思われる事も
あるでしょう。

好き勝手したいなら
自分で組織を立ち上げて
自分の組織の中でやればいい。

そういう発想や力のない人がこんな行動にでやすい。

0を1にするのが何より大変なのに。
出来上がった組織の中で
うまく立ち回ることなんか
組織を立ち上げる事に比べれば簡単。


あと、色んな情報を握り「情報通」っぽい感じで
面白ろおかしくうわさ話や陰口をいうひと。
こういう人が一番厄介。

基本的に口が軽い人は一切信用していません。
噂好き、悪口好きも同じ。
全く信用しない。
それなりの距離で関わる。


悪口、噂ってのは
誰が言ってたというところまで
本人に届くようになっています。

友達が少なかった人が
何かのきっかけで急に友達が増えたり
したときにこういう方向に進む人が見受けられる。

人との関わり方を知らないんだろうなと思う。



何があっても恩を忘れない人もいます。
普段連絡をとらなくとも黙々と結果を出そうと努力し
結果で恩返しをしようとする人。
口であれこれ言う事は簡単ですもんね。

行動、結果で示そうとする人って本当にすごい。
精神姿勢がすごいと思うし尊敬出来る。
分かりやすい数字、具体的なメリットで
返そうとしてくれる。

僕は基本的にマイナスがなければそれでいいと思ってるんです。
恩返しなんてしてもらえると思って
人に何かをしているわけではありません。

しかし、このようにずっと恩を感じ行動し続けてくれている人が
いるというのは本当にすごいことだと思うし、
素直に嬉しい。

気持ちがまず嬉しいですよね。

恩は返してくれとは言わないから
僕にとってマイナスな言動や行動を
とるのだけはやめてほしい。

誰かが僕の悪口をいうとき
僕にも必ず原因があると思っています。

別に相手を攻撃もしていないのに
攻撃されると不思議な気持ちになりますよね。

いろんなところから
意外な人が意外な事言ってたという話しを聞きます。笑

人を悪く言う人と
そうじゃない人、
どちらを信用しついていくか。

誤解がとけたときどうなるか。
それは考えたらわかりますもんね。


誰に対しても出来るだけ友好的でありたいとは思う。
僕が態度を考える人はよっぽどだと
周りの人も思うだろう。

何も理由無しに人を嫌う人ではないと
僕を知る人は思ってくれるだろう。

今まで、僕に背を向けた人の事までかばってきた。
本来そんなことをする必要もないのに。

その結果、デメリットもたくさんあったように思う。

普通にやりたいことをやりたいだけなのにな。
誰の邪魔をしたいとも思っていない。
今もそう。

心穏やかにそれぞれがそれぞれのやりたいことを
真っすぐにやればいい。

それだけの話しなんだよね。

イヤなら関わらなければいいだけだし
わざわざ人の悪口をいう必要もない。

少なくとも僕はそうしています。

そして今関わらない人にも
心で感謝している人もいます。

結果的に離れていった人に対しても。

人を心から嫌いになることなんてほとんどない。
誰にだっていいところがあるから。
だからみんなで成長していきたいな。

言い訳をせず直すとこ直したら
みんなが心地よくいられる空間が出来るんじゃないかな。

そういうの目指したい。
出来れば誰もきりたくないしね。

注意してもダメなら考えないといけないけどね。
みんな仲良しがいいね。

その為にひとりひとりが意識していこう。
みんなの居場所であるために。

2014年1月26日日曜日

知ったかぶりは「知らない」を露呈している。

知ったかぶりする人っていますよね。
きっと、本人は知ったかぶりした事を
周りが気付いていないと思うから
知ったかぶりするのだと思いますが
正直、人間的なレベルが高い人から見ると
知ったかぶりは簡単に見破られてしまいます。

人間的なレベルの高い人、コミュニケーション能力のたかい人というのは
過去の相手との会話の内容を克明に覚えていたり
直感的な違和感を感じる物なのです。

あと、知ったかぶりをする癖を持つ人に対して
1回で気付かなかったとしても
関係を継続していけばいくほど確信に変わっていくものなんですよね。


知ったかぶりをしてしまう人の心理として
自分に自信が無い、無知を恥だと思っている、
馬鹿にされたくないというものがあるのだろうなと
感じます。

しかし、知ったかぶりをして
それを見破られたとき、
知ったかぶりを繰り返す人だと断定された時
信頼は大きく失墜するし
知ったかぶりをあえて指摘する事はなくとも
イラッとさせてしまうものなので
やめたほうがいいですね。


実は僕も昔は知ったかぶりしまくる人でした。笑
まさに馬鹿にされることがこわかったんですね。
なんか格好わるいし。

でも、知ったかぶりすることの方が格好わるいと気付いた時から
知らない事はあえて知らないと答えることが多くなりました。
どっちでもいいことは流したりすることもありますが。笑

知らない事を知らないと誠実に伝えれば
相手から教えてもらえるかもしれないという
ラッキーなチャンスにも巡り会える可能性が高まります。

また、相手から教えてもらえなくても
帰ってGoogleで調べればいい。
気付きのチャンスをもらえるんですね。

そうしていれば知らない事は少なくなってくる。

知ったかぶりをしてその場をうまく切り抜けたと思い込んでも
実は見破られていて相手をイラッとさせてしまうより
100倍いいですね。

本当気をつけたいものですね。

2014年1月22日水曜日

友達が多い人と少ない人の違い。

高校卒業するくらいに多かったんだけど

「俺は大阪に行く。」
「私は東京に行くの。」

理由を聞いてみました。

「え?ふくやまってしょぼいじゃん?」

「なんか福山っていい人いないし。」


そんな返答でした。
そのときはそうなんだ。。くらいにしか
思っていなかったんだけど
どういう理由かって大切だと思いました。


僕は基本的にはどこでやっても同じだと思っています。
そりゃあ完璧に同じってことはないだろうし
チャンスも確かに転がってるのかもしれない。

でも、チャンスってのは基本的に
実力がありスキルが高い人のところに
集中するでしょ。

東京はチャンスの数も多いだろうけど
自分よりスキルの高い人なんて
どこにでもいるっていう状況。
むしろ、頭数で割るとチャンスの数は
少ないんじゃないかと思ってる。

サイコロを振れば振る程
出る目の確率は一定の数値に近づいていくのと同じで
結局どこに行っても成功するかしないかは
一定の数値に近づくんだと思う。


なんでこんな話しをするかというと、
僕自身友達は常に多い方ではありませんでした。

嫌われ者の気持ちもわかるし
ヤンキーもオタクもおしゃれさんも
勉強ばかりしてる人も関係なく
繋がっていました。

そんな中嫌われる人の特性に気付いていったのです。
逆に、好かれる人にも一定の特徴があると感じました。

嫌われる人は現状のせいにする。
好かれる人は言い訳をしない。

嫌われる人はマイナスな発言が多い。
好かれる人はプラスな発言が多い。

嫌われる人は判断基準が自分。
好かれる人は判断基準が周りの人。

嫌われる人は自分が得しようとする。
好かれる人は人を得させようとする。


どんな状況でもベストを尽くせば
最善の結果は出せると思います。

他県に行ったとしても
結局自分が嫌われる行動をとってしまえば
どこに行っても嫌われるし
好かれる人はどこに行っても好かれる。

そのことに気付けていない友達が多かった。


もちろん、どこでするかってのも大切だとは思うけど
まず、どのようにするのかが一番重要。

何をやってもうまくいかない人は
何をやってもうまくいかない方法でやってるからなんですよね。

おそらく、本当のお金持ちの人は
今全財産を失い例えホームレスになったとしても
余裕でそこからスタートして
同じ地位に戻るでしょう。

どこでやるかとか現在どういう状態かってのは
圧倒的に不利でない限りはそこまで関係なく。


何が「無い」ということにフォーカスするのではなく
何が「ある」のか、武器はなんなのか、
どこを攻めるのかにフォーカスし続けてるから
なんだろうなと思います。

臨機応変に状況を見て判断して
本質の力を使ってカスタマイズして
どこででも結果を出せる。

それが本当の実力者だと思っています。



人と最善な信頼関係を構築出来るならば
極端な話し、自分自身は何も持っていなくても
周りの人が必要なものを持っていれば
成立すると思うんです。

それは他力本願という意味ではなくて
人を動かすにはwinwinの関係にないといけないので
相手にとっての最大限のメリットをまず考えるということです。


これが成功する人の思考。
失敗する人の思考は逆で
何も自分にはないという事にフォーカスしてしまい
なにも持っていない事を実感する為に多くの時間を使ってしまいます。
そのうえ、自分が得する為にどうするか。。という事しか
考える事が出来ないので協力者もでません。
精神姿勢というのは外の世界にも大きく反映されてしまいます。


本当に友達が多い人っていうのは
ただ目の前にいる人に最善を尽くしているだけなのかもしれません。



世の中の本質っていうのは
目に見えてることとズレてる、もしくは正反対の事も多い。
だから面白い。




友達を作りたいなら
友達になりたいと思ってもらえるような
自分になりなさい。

友達になってほしいと伝えるのが苦手なら
向こうから友達になってほしいといわれるくらい
自分を磨きなさい。

己の芯となる絶対に譲れない少量の事以外は
捨ててしまいなさい。

相手が何を望み何を考えどうしてほしいのか。
表情や態度、過去の言動、価値観、思考パターンから
推測しなさい。
それが空気を読むということ。




友達を作るのが難しくて
自分には出来ない。。と思う心から
無意識のうちに友達なんていらないという人がいます。

友達を作らないメリットなんてない。
本当の友達ってやつはさ、
空気みたいな存在だよ。

友達を鬱陶しいと思うなら
本当の友達を作った事がないからだよ。

お互いを思い合って距離感もお互いがとるのだから
鬱陶しいっていうことにはならない。

自分の事しか考えていない人を
友達だと言ってはいけない。

そんな事をしてしまえば友達ってなんて
めんどくさいものだと感じてしまうでしょ?


頻繁に連絡なんてとらなくていいんだよ。
仲良しアピールもいらない。
気が向いたら遊んで
飽きたら帰って
そんなふうにつかず離れず何年も気を使わずに
関わっていける人っていうのが
本当の友達だと思うよ。

押し付けがましいやつは友達ではない。
こっちの気持ちも考えずしつこいやつも友達ではないでしょ。


自分が見返りを求めず最善を尽くすに値する人だけと
友達になりなさい。
相手からは何もしてもらえなくていい。
本当の幸せとは自分が相手に施す事で生まれるものだ。

施したい人に施させてもらえること、
それが幸せってやつの正体だと僕は思ってる。


見返りを求めるという考えは押し付けがましい。
経済の世界ではある程度しょうがないだろうけど
それを友達との関係にあてはめるのは
ちょっと違う気がするな。


また、友達や恋人等
一般的なスタイルにはまらない関係性ってのも
現代では増えてきていると思う。

そういうものも安易に批判するのではなく
本人同士が納得しているのであれば
受け入れるべきだと思う。

 その代わり、その場合、女は弱い立場なんて
思ってはならない。
そんな考えがあれば関係が解消されたときに
男を責めることになるだろう。

お互いが納得してはじめたことなのに
男だけを責めるというのはおかしい。


女性も男性も
僕は同じ地位で見ていきたい。

対等でフェアであるべきだと思ってる。


給料や雇用の条件だって
同じでいいと思う。
いまだに女性の方が不利だったり
給料安いなんてのがあるみたい。

そんなのおかしい。


男女もフェア。
友達同士もフェアであるべき。


友達を無理に多くしようとは思わないけど
友達が自然に増えるような人間性を身につけたいとは
強く思う。

2014年1月20日月曜日

新しい気持ちで。

様々なものに影響を受け影響を与え生きています。
誰もが。

そんななかでくたびれてしまうこともあるでしょう。
絶望的な気持ちになることもあるでしょう。
時に人生は終わりの見えない暗闇に思える事もあるでしょう。

そんなとき、ふと終わらせてしまいたい。。と
思ってしまう事もあるかもしれません。

でも、よくよく考えてみれば
それはあなたが悪いのではなくて
あなたが受けた影響のせいなのかもしれません。


全ての原因は自分にある。
いいことも悪い事も。

これは常々僕が思う事です。


しかし、周りの人に対しては同じようには思っていません。
外部の影響で心が沈んでしまったのだな。。とか
イヤな事があってくたびれてしまったんだな。。とか
自分ももちろんそういう経験はあるから
すごくわかります。

自分に厳しくありたい。
まだ未熟で100%そう出来ているとは言い切れないが。
しかし、それを人に押し付けたくはない。
自分に厳しく人には優しくという言葉を
若い時の自分は無理だと思っていた。
本気で自分に甘く人に厳しい人間だったから。。

何事も意味を見いだせなければ行動出来ません。
自分に厳しくあることは
自分の成長を望む心がそうするべきだと言っています。
人に優しくあることは
今までのどん底の経験から気持ちを汲み取り
自分の事のように考え
相手の思考レベル、価値観と自分のそれを合わせ
「理解」したいと歩み寄る姿勢。

そのことで相手の心を救えることが出来れば。。
と考えます。


子供に向かって大人の考え方を押し付けたりするのは
ちがうように、相手の価値観と思考のレベルに合わせる、
つまり、目線を合わせて「一緒に」考え、感情を享受することが
大切だと思っています。

その為にはいい事も悪い事も
自分自身がたくさん経験しておかなければなりません。
愚かな事も崇高な事も
実際に行動しておきどんな感情になったかを
知っておかなければほんとうに人の気持ちなんて
わかりはしません。

過去、今よりずっと愚かだった自分を
反省し続けると共に
その経験を活かす。

これしかないと思っています。


これからも何度となく失敗し
愚かな行動をとってしまうかもしれません。

その度反省し活かすしかない。


人の気持ちをわかるということは
まず、自分の気持ちをわかるということ。

何も経験していない人は
本当の痛みや辛さは想像しにくいと思うから。


苦しいとき、楽になりたくて
生み出した思考法もあった。

どうやれば心穏やかに
人と関わっていけるかを磨いてきた。

人間の人生において起きる出来事は
そんなに変わらない。

もちろん、努力していない人はそれなり、
努力した人、リスクを恐れず突き進む人には
よりハイレベルな喜びや悲しみを与えられる。

そんな中で幸福だと考える人もいれば
不幸だと感じる人もいる。


自分の行動一つで結果は変わり
周りからの反応も変わり
嫌われていた人間だって
好かれるようになる。

それなのに言い訳ばかりして変わろうとしない人は
本当に多い。

人は変えられないと思っている。
だから、押しつけはしない。

ただ、とても勿体ないとはいつも思う。


しかし、僕自身もきっと
もっと優れた人からすれば実力もないのに
自分を大きく見せ偉そうなことばかり言ってるやつなんだろうな。

それでも僕は僕の納得のいく方法しかとれないんだよな。


現状を変えたいなら「方法」を変えるしか無いんだよ。
現状は過去の方法の結果。
現在の方法を変えるということは
未来という結果を変える行為。


僕は人に言われても自分の考えを変える事は難しいが
24時間考え続け自分で生み出した思考、
心から納得出来た思考は
一瞬で受け入れ行動に移す事が出来る。

変化自体を恐れているわけではない。


望んだ結果を得られないのであれば
方法を変えてみればいい。




ここ数週間で縁あって色んなところに行く機会をもらえた。

今、少しだけ新しい気持ちが
生み出されてる。

常に思考の新陳代謝が行われていて
周りから僕を見るとなんだか変にうつるかもしれないが
自分の中では常にリアルを生きていて
ここに書くこと全てが実感していることであり
極力かっこつけずに書いている事。

ここにはいいことも悪い事も書こうと決めてる。



先日、仲間が心配してメールをくれた。

そんなに心配させてしまったのかと
ちょっと反省した。

俺は今までいいところばかりを見せすぎてた気がしたんだ。
本当は崇高な人間でもなんでもない。
かといってウソをついてきてるわけでもない。
ただ、いいところばかりを見せていた。

だからいつも人間味がない印象を受けていた人もいるかもしれない。
影の言葉を発しないから逆に信用出来ないと思う人もいたかもしれない。
もしかしたら常にプラスな発言を意識していた僕を
評価してくれていた人もいるかもしれない。

無駄に愚痴を書くのは好きではない。
悪口を書くのも。

自分自身のリアルな心境はマイナスな感情をなくして
語る事は出来ないような気がした。

賛否両論ある考えだって心の中にはある。


なんだかね、無性に
「もっと強くならなきゃ。」と
思っている自分がいる。



社会にどれだけの価値を提供出来るのだろうか。
最も効率的に重要な社会貢献をするには
どうするべきなのだろうか。
価値で貢献出来る人でありたい。

そしてなんでもかんでも「無料」ならいいという考えも捨てたい。
無料や低価格、値引きをすれば親切だという考え。

価値を抑え価格を抑える事を考えるよりも
価値を最大化させ価格は相応という部分を
目指さない限りは自分も自分が提供出来る価値も
結局は最大化しないとこの一年で気付いた。


今こうして自由に活動させてもらえてる事は
本当に奇跡的で今のこの時間を最大限有意義に使う事が
現在の僕の使命だと考えている。

この1月の前半はネットでの仕組み作りに費やす為に
ほぼ1人ですごしてた。

人にも会っていかなきゃ。



本気で人生を変えたい、夢を叶えたい、
好きな事を仕事にしていきたいという人と出会いたい。

その事に関しては僕はスキルという面では
貢献出来ると思ってる。

よくあるネットワークビジネスのお誘いではない。

具体的なネットでの情報発信ツール(SNS・ブログ等)の使い方
リアルなコミュニティ構築の仕方
実績を作るために数字を作ったり写真、動画で残す重要性、
チラシ、名刺作成の仕方、
コンテンツ自体を持っていないならハンドメイド等
コンテンツそのものになるスキルも教える事が出来る。

ネットワークビジネスを否定するわけではない。

しかし、僕の組織ではネットワークビジネスは使わない。
そういう決まった枠組みに入って活動するのではなく
個人単位での活動をお勧めしてる。

誰かのやり方に疑問を持ちながら
友人にも疑問を持たれながらやることっていうのは
僕の中ではストレスになるし
いくらお金を稼げたってやっぱり現在の大好きな友達を
失う可能性があることはしたくない。

あと、僕のように色んな個人的な活動をしてる人は
あることないこと噂がつきまとう。

本当の自由とは何かを考えた時に
ちょっと日本ではまだネットワークビジネスは
早いかな。。というのが個人的な見解。

これだけたくさんの人と知り合う僕でも
ネットワークビジネスで成功し続けてる人には
なかなかお目にかかれないし繋がる事が少ない。

一時的に収入を増やした人でも今はどうしてんだか。。とか
あの会社の名前聞かなくなったなとか。。


もちろん、僕はネットワークビジネスに一切偏見はありません。
合法であり立派なビジネス、ちゃんとした会社も
多いのは知っています。

それにネットワークビジネスをやってる友達もいます。
彼らは本当によく頑張っているし
夢に向かって努力もしています。

彼らを否定しようとは思わないし
むしろ応援してる。
方向性は違えど成功してもらいたいとも思っている。


去年までの僕は善し悪しを判断するのは違うと思っていた。
しかし、個人的な見解として書く事は
悪い事ではないと思った。
批判するわけでもない。
リスペクトする気持ちを持ちながら
自分の方向性、自分の組織の方向性とは
現段階では違うと意思表示することによって
僕の組織のメンバーが迷わないと思った。

リーダーは方向性を常に示し続けなければならない。

誰かは賛同し誰かは離れていくかもしれない。
それでも曖昧な方針では強い組織は作れないと思った。


目的や属性があるからこそまとまるんだよな。

俺の組織が全てじゃない、
全体の中のたった一つ、一部分を担う存在であればいいんだ。

だからストイックであろうがニッチであろうが
かまわないはずだ。


大きく門を開く楽遊会にも最低限のルールを作り
そこから小さなグループに割り振る。

これが現在考えるなおきちの方法。


人の属性を見分ける事が出来る特技を活かせる。

誰もが快適に過ごせる空間を作るには
これが一番いい。


本来、マニアックな話しや身内ネタ程盛り上がりやすい。
しかし、知らない人からすればどうでもいい話しを
長時間されるとうんざりする。

一方は最高に楽しいから残るが
もう一方はそういう状況が続くと離れていくだろう。

過去の経験から様々なケースを考え
頭の中で検証し最善の方法を思いついた。

机上の空論かどうかはやってみないとわからない。


さみしい人を減らしたい。
ひとりぼっちのひとを。

ひとりぼっちのひとは嫌われる要素を
持っている人も少なくない。
嫌われる要素に気付き成長出来る場所も
最終的には作りたいんだ。

そしたら人生変わるでしょ。

誰だって嫌われたくないんだ。
好かれたいんだ。
でも、方法がわからないんだ。。

なかなか真っすぐに受け入れることが
出来ない人もいるかもしれないけど
1人でも人生を変える人がでれば
僕がやってることは意味のあること。

安易に嫌われ者を嫌うのではなく
関われるところまで関わろうとする姿勢は
見てもらったらわかると思う。

しかし、その結果メンバーに迷惑をかけてしまってるのも事実。

全体的なコミュニケーション能力アップをはかれるような
方法を見つけたい。

誰もが不快な思いをすることなく集まれるということは
簡単なようで難しいでしょ。

それは運営サイドで管理するには限界がある。

参加者ひとりひとりの意識の向上がはかれれば
より快適な空間が実現出来る。

幅広く入り口を開く楽遊会から入り
よりストイックな話し、
身内ネタで思う存分盛り上がれる場所等
気兼ねなく羽を広げることが出来る場所を
作りたい。



新しい気持ちになった朝。
そんなことを思ったよ。

2014年1月17日金曜日

水に金を見る。

先日温泉に行く事になり
数年ぶりに大衆浴場という場所に行ったんです。

そのときに様々な気付きがございまして。


服を脱いでしまえば
人間も動物の一つだなと実感しました。

全て脱ぎ去った時に何が残るのか。
年齢が若いというだけで美しいだろうし
肉体は衰えど知恵や経験は若い者に負けないという人もいるだろう。

社長もニートもフリーターも正社員も
服を脱いでしまえばそんなに大差ない。

誰が誰かなんて顔を見なければわからない。



現在の役職や立場なんて本当にあやふやで
会社が倒産してしまえば
会社が潰れる前幹部だったとしても
関係なくなる。

だったら、本当に価値ある人間とはなんだ。。


そんなことが頭をよぎりました。
どこにいても何をしてても変わらない人間としての魅力。。

肉体本来の身体能力。美しさを含む総合力、
アイデアの作り方や経験等の能力、
健康、そういったものだろうと思いました。


服を着てたくさんの情報にまみれている日常の中で
僕にとって温泉や銭湯はいつも日常の近くにあったけど
行ってみると非日常だと感じました。

もう一つ、精神的な気付き。
銭湯の中ではずっと何かしらの水(お湯)の音がしています。

惜しげも無く流れ続けるお湯を見ていたときふと思ったのです。
お金の流れに似ていると。

そこから思考は水をお金に例えその流れについて考えていました。


途絶えることなく水を同じ場所から排出し続けようとするとき
水は大きく分けて2つの方法で一定量を確保出来ると思いました。


1つはどんどん新しい水を手に入れ
流し続けるということ。

2つ目は循環。
新しい水が常に出ているように見えても
見えないところでポンプですいあげていたなら
また同じ水を同じ場所から排出することが出来る。

温泉は自然に湧き出るものが本来の姿かな。

銭湯は人工的に創り出した浴場。

これは似て非なるもの。


新しい水を常に出し続けるならば
古い水は排出しなければならない。

意識せずとも器を満たせば自然にこぼれ落ちる。

しかし、循環を意識しておかなければ
水の流れがうまく起きていない場所が古くなる。

そう、ここでまた気付いた。
水の流れは組織の流れにも似てる。

上から下に水は落ちていく。
新しい上の水は価値が高い。
新しい水は少ない。

古い水はありふれる。
たくさんある。

水は自分の意志で重力に逆らう事は出来ない。
しかし、間接的に何かの力を借りる事が出来れば
上にあがることが出来る。

ポンプなり人間の手なり。



自然を見るときに
様々な事を重ね合わせて考える癖がついているのだが
銭湯という場所は人工物でありながら
水が豊富にあるので考え事をするのに良さそうだと思った。

自分と向き合いたい時程
関わりのない人がたくさんいる場所に自分を置いてみるのもいいのかもしれない。

相対的な自分が見えるし
自分の中での当たり前を壊してくれる出来事に
出会える可能性もあるから。

何をするときもただ「やる」のではなく
共通の本質について考えながら行っていこうと思う。

素晴らしい気付きをありがとう。

2014年1月15日水曜日

解放コード。

僕たちが見ている世界がもし
0と1の組み合わせだけで作られていたとして
それを運命だと呼ぶのであれば
きっと従うしかないのだろうけれど
どこかにバグがないか血眼になって探す。

表面上の出来事は内部のスクリプトを
あらかじめ組んだ人間の手のひらでの出来事。

そんな可能性も否めない。


自由を想像出来る限界さえコントロールされているのならば
意思を意識しなければロボのままだろう。

創造の世界と競争の世界。
本当は選べるんだろ?


無限にある富の話しをしてくれる大人は周りにはいない。
競争がなければきっと困る人がいるからだろう。

世界の富の8割を2割の人間が所有するこの世界では
真実に気付けなければロボのままだ。

本質は海の底に。

法則は偉人の胸に。


僕たちが見える世界はほんの少し。
ヒントに目をやるんだ。
目を凝らして。
あるはずの場所見ろ。


バーコードはついてはいないものの
様々な足かせをマジシャンズトリックを使って
僕たちは選ばされてる。

ほら、よく見るテレビのマジシャン、
あのトリックさえ見破れないのに
本当に頭がいい人が何世代もかけて作った
ズルい仕組みに気付けることなんてないよね。

だとしても見るんだよ。
目を凝らすんだよ。

使われているのは誰なのか。
消耗しているのはなんなのか。


奴隷マインドを植え付けられた人間は
自信を持つ事さえ許されず
思考する気力さえ奪われていく。


はっきり言おう。
この世に安定なんてない。

変化と対峙することこそが本来の姿だ。


10年前の生活と同じですか?
どれだけ進化していますか?
変化を嫌い安定して10年前と同じことが
出来てる人、おめでとう。

インターネットでの買い物が当たり前になり
本でさえ自宅に届く。


古き良き時代はもうここにはないし
10年も経てば現実を見れない人間が
あの頃はよかった。。なんて
言ってんだろうね。

いやいやいや、あの頃もいいけど、
今も物凄くいいでしょ!


人間てのは無い物ねだりをするものだな。
こんなに満たされているのに。
なんだって出来る。
可能性は常に広がり続け今も目の前にある。

会社が家族を養ってくれる時代は
もう終わりを告げようとしているんじゃないかな。

これからは自分の力を磨き
現実と向き合った方がいい。

どんな小さなスキルでもいい。


ねずみとチーズの話しを知ってる?

新しいチーズを探す為に
知らない世界に飛び込むのは誰だってこわいだろう。
だけど、立ち止まっていたら手元にあるチーズは
食いつぶしてしまう。
その先に待っていることは。。
容易に想像がつくよね。
誰かがチーズを与えてくれるのを待つか?
他力本願でじっとして
他人がチーズをくれなければ文句をいうのか?
なんの努力もせず安定を願いうずくまっているだけで。。
それでもチーズをくれないと文句を言うだろう。


無意識のうちにそんなねずみと同じ思考を持ち
行動している人がたくさんいることに驚く。

大人になってしまえば
もう中学校の時の生活指導の先生はいないんだよ。
誰も怒ってはくれない。

自分で気付く能力をもとう。


ヒーローを待ってよかったのは90年代までじゃないかな。
今の時代、ヒーローなんていますか?
待っててもしょうがないんだよ。
自分がヒーローになるくらいの勢いで
アクションを起こさないと。

あと、「いつか」ってのも絶対に来ない。
今はちょっと。。とか言ってるやつに限って
来年も同じ事いってるでしょ。

このままいって来年も同じ状況なんだったら
はっきり言って今行動しても来年行動しても同じ。

だとしたら、今行動した方が1年分時間がプラスされる。
時間はお金よりも尊い。
当たり前だよね。

人間世界にいるとそんな当たり前のことさえ
時々わからなくなりそうになる。

お金より人
お金より時間

人あってのお金。
時間あってのお金でしょ。



深層心理の段階では本当は気付いてるのに
自分に言い聞かせるように間違った行動を
繰り返す人も目につく。

それを今自分はやるべきなんだ!
これしかないんだ!って。

そういう人程無理してるよね。

本当は視野を広げれば違う選択肢があるかもしれないし
これしかないと思い込もうとする人の心理って
「これ」じゃないと困るんだろうなと。

正解が「これ 」であってくれないと困る、
だって、こんなにも投資したんだから。
とかね。

でも残念ながらそれは個人の勝手な都合であって
この世界においてはどうでもいいと判断されることだったり
するんだよね。


もしさ、明日事故にあって
「あ。俺死ぬかも。。」
ってなったらさ、ほとんどの人は後悔するんじゃないかな。
俺だって後悔すると思う。
まだまだやりたいことたくさんあるのに!!って。
これからが楽しくなるとこなのに!!って。

さっきの話しに戻るけど
今行動するということは
1年後に行動し始める場合に比べて
1年分得してるんだよね。

どこで死んでも後悔はするかもしれない。
でも、その時に
「あのときの決断は正しかった。」
と思える自分でありたい。


お金なんて現世でしか使えないんだからさ。
会社とかお金とか家族とか色んな原因で
好きな事やれてない人たくさん。
俺もそりゃ色々問題はあるさ。
でも、そんなの言い出したらきりがない。
一度だけの人生、少々わがままでも
やりたいようにやってみようや!

周りがなんて言ってもさ。
結果を出す事が出来れば全てチャラになるような
大きな事やったらいい。

誰だって大なり小なりハンデはある。
平等じゃないかもしれないけど
長所は短所であり短所は長所なんよな。

それを短所ととらえるか長所ととらえるか
不利だととらえるか有利だととらえるか。

考え方次第じゃないかな。



2013年やりきってわかったことがたくさんある。
俺は俺の中での常識を過信していた。
常識に縛られるなと言い続けていた俺が
自分の視点を過信してしまっていた。
世の中には自分の想像を超えてる人がたくさんいる。
いい人も悪い人も。
その全てをフラットに見ていたかった。
しかし、甘い顔をし続ければ
どこまでもつけあがる人がいる。
本当に悲しい事。

ひとことで言ったら「なめられてる」んよね。
それで害が出てきてる。

最近、仲いい人と話してて
しょうもない人多くない?って。
そう言われてみると確かに。
しかも、そっちでも害が出てきてるらしい。
さらにいえば俺等のまわりだけではなく
結構広範囲でそうらしい。

俺が2013年までやり続けていた方法は
関わる人間がある一定レベル以上の人であることが
大前提なんよね。

だから、過信しすぎていたと思った。

もちろん、俺が優れているとか
俺はまともだと言いたいわけではない。

どちらかというと学歴もないし
常識もないし当たり前のことが
完全に出来るわけでもない。
どんくさいとこもある。

それでも人と接する時極力不快にさせたくないとか
色んな配慮は自分なりにもつ。


去年の暮れまで1人で持ち続けていた違和感は
俺1人だけのものではなかったらしい。

俺なりに分け隔てなく
接しようとしていた事は
逆効果だったみたい。。


そして俺が思う自由を誰もが同じように
求めているのではないこともわかった。

それぞれの幸せを大切にするのがいいと思ってる。







僕たちが見ている世界がもし
0と1の組み合わせだけで作られていたとして
それを運命だと呼ぶのであれば。。

俺は最後まで抗い続けるだろう。
自分らしくあるために。

2014年1月12日日曜日

世の中の本質を考える夜。

時代は変化していく。
確実に。
常に。

しかし、同時にずっと変わらないものもある。


変化を続ける時代の中でのこっていくものに
目を向けると本質が浮かび上がる。


例えば 上質な物 。
上質な物には需要があり
特にベスト1、つまりトップのものには
需要が集中する。

クォリティが高いもの。
これは上質なものとほぼ同じだけど
人間的なレベルやスキル等も含まれる。

かわいい・キレイなもの。
これらも時代を問わず好かれる。
しかし、時代によって意図的に
何がかわいいかという定義自体が
変わっていく。



そして繁栄する組織と人間にも特徴があると思うんだ。

優しい
心がある
芯がある
目的がある
社会にとって有益
スキルが高い

もっと色々あるだろうな。
本質にそわないものは
一瞬繁栄したように見えても必ず消滅していく。

人がよってくる場所・人には共通点がある。
うまくいかないときは自分を見つめ直すとき。

原因は常に外部ではなく
自分自身にあるものだ。


本質に近づきたい。
もっと。
もっともっと。

その欲は常にもっている。

変化する時代の中で
変わらないもの。

僕が目指し伝えていきたいものは
そういうものだ。

真の仲間を作りたい。
人間力、コミュニケーション能力、スキル、
どこをとってもこいつしかいないと思えるような。

何重もの円のように仲間を見ていく事になるだろう。
 一番近い人達の事は
誰よりも心から人間的に好きでいたい。

陰口を言い合うような組織なんて
なんの価値も無いから。

陰口を言い合うくらいなら集まらなければいいのに。
いつもそんなふうに思う。

全ては自分の意志だ。

何をやるにも。



もっともっとフラットに正しく
この世界を、人を見たい。
隠れた部分を見透かしたい。

そのために心理と真理、本質を学んだいこう。

根底からの成長を望む。
表面上の、上っ面のだけ良く見せる技術なんてもういらない。

本当の自分を見ていこう。
そして本当のあなたを見ていこう。

服を着ても言葉で取り繕っても騙されず
簡単に本質を見抜ける人になろう。

その為に様々なタイプの人間と向き合い
理解出来ない事は理解出来ないで終わらせるのではなく
心理をみていこう。

自分の器を磨くにはそれが一番はやいのだと
直感がいう。


世の中の本当の姿が
ありありと眼前に浮かぶような
目を養おう。

2014年1月9日木曜日

シンプルな事が楽しい。

遊ぶ場所がないとか
遊ぶ内容がないとか
思う時もあったけど
なんのことはない、
人と話しをするだけで
とても楽しい。

価値観が合うメンバーで
集まって話すっていうのは
本当に楽しい。

こういうのが居場所っていうんだろうなと
よく思う。

何をするかではなくて
誰とするか。
これは大切だよね。


楽しい事をしようと努力するのも
大切だとは思うけど
楽しい仲間を作ろうとすることは
もっと大切かもしれない。

誰でもいいわけじゃないんだ。
人にこだわろう。

2014年1月6日月曜日

フラットな価値観を証明した対価。

昨年まで自分はフラットな考え方であり
行動と言動を一致させることに徹していたような気がします。

価値観なんてそんなに一気に変わる事は無い。
そして行動の伴わない言葉に力は無い。


こんなにもフラットな考え方を持っている人間もいるのだと
言いたかった。
証明したかった。

誰が悪いとか何が正しいとか
そういうものは1人の価値観で安易に決める事は
出来ないと思っている。

この考え方をみんなが出来れば
自分の考え方が必ずしも正しいとは限らないと
いうことに気付き
争いが少なくなるかなと考えた。


でも、この言動はどっちつかずにしか見えないもんなぁ。

俺個人の意見を聞きたい人もいただろう。
もちろん、価値観の最優先すべきものが
それだったのだからその時は
それでよかったのかもしれない。

人間には二面性がある。
二面性どころか複数の顔があって当然だと思っている。

どこまで出すかがその人の結果を変える。


俺も人を全て同じように見ているわけではない。
前にも書いた事あるけど
本当の平等とは実力がある人が認められることだと思っている。
努力しない人も努力して頑張った人も
同じように扱うということではない。

それはずっと前からそうなんだよね。
でも、それを口に出すのは
気が引けた。

もともと俺は分かりやすい人間だ。
シンプルな人間だ。
だからこそ人をたくさん傷つけたと思う。

狭く深くでしか人と関わる事は出来ない。
それは昔からだし、きっと今でもそうなんだよ。

全ての人をないがしろにしないように
気をつけてきた。

しかし、それは本当に大切にするべき人に使うはずだった時間を
好きでも嫌いでもない人にも使うということにもなる。

長い人生においてこれを良しとするかどうか。


愚かな人は自分が評価されなければ
不平不満を言うくせに
評価されてもそのことに感謝することはない。

実力のある人を特別扱いすれば
不平不満をいうくせに
自分が努力して実力のある人になろうという発想は無い。

そんな人はどう考えても嫌われる。

非常に残念な人だと思う。


努力すれば独学だってなんだって出来るし、
実際俺はやってきた。
その努力は本当にすごい人から見れば
ちっぽけで小さな物だとは思う。

でも、自分の世界で何度も0を1に変えてきた。

具体的には去年は
・Facebookアプリの作成
・ホームページの作成
・独自ドメイン取得
・有料レンタルサーバーを借りる
・有料メルマガをはじめる
・アフィリエイト・プロダクトローンチについて学ぶ
・小さいながら勉強会を毎週開催


等かな。
これらは去年全く触ってもなかったジャンルだけど
自分で調べて時にはお金を払って勉強した。

行動も努力もしてないのに結果が変わるはずもない。
不平不満を口にする暇があるなら俺なら勉強をしたい。
人のせいにする時間があるなら実力を磨きたい。
わざわざしょうもない悪口を言って
束の間の満足感を得る時間があるなら
1人勉強したい。
誰かの評価を落とすような噂を流す時間があるなら
自分の評価が上がる方法を考えたい。
人の仲間を勧誘し奪おうとする時間があるなら
自分の仲間を自分の魅力で引き寄せたい。



フラットな価値観はこれからも
心の中に常に持って行くだろう。

なおきちの個人的な価値観を表面化させるということは
表面上だけ見ていれば昔と変わったと思われるかもしれないが
本当に仲のいい人からすれば
より本質に近い部分を見せただけだよね。と
思ってもらえると思う。

自分の中にいくつもの顔があることは知ってる。

頭の中には非常にシビアに物事を見る自分もいる。
全てにおいて寛容的な自分ももちろんこれからも存在してる。

人間の心理として一環した部分を出さなければ
信用問題に関わると思ってしまうところがあって
本当は誰しも二面性があるのに
その両方を出す事は難しい。

誰しもが二面性を持っている事を知っているからこそ
人を安易に嫌いになったりすることはない。

いいところもあれば悪いところもあるだろう。
俺の事を嫌いだとしても他の人のことは好きだろう。
そりゃあ、態度が違って当然だし
俺の事を嫌いだからといってその人が
悪い人だということにはならない。
だから俺も、俺を嫌いな人の事を嫌いになったり
批判したりする必要は無い。

俺の感情は個人的なものだ。
だから表面に出すのはなんというか愚かな気がしていたんだ。
他の人には関係のないことだと思ったし
気分を害させることは言いたくはない。

しかし気付いたんだ。
何もしない人ならそれでいいのかもしれない。
だけど、俺は少なくとも7年間リーダーとしてやってきた。
俺が誰と関わり誰を信頼しているか
その理由は語るべきだとも思った。

誰かの邪魔をしたいわけではない。
だから、誰かの評価を落としたいわけでもない。
基本的に誰かの評価が落ちる可能性があることを伝えるとき
同時にその人の評価が上がる事も伝えるようにはしてる。
全てが悪い人なんていない。
その考えにウソは無い。


実力の高い人は特別に評価する。
コミュニケーション能力の高い女子を評価するのは当然。
具体的なスキルが秀でている人も評価して当然。
褒めて伸びてもらいたい。

そのへんは昔から見ててわかりやすいと思う。
美しい事も話しが面白い事も特技だと思ってる。
褒められて当然だし自信を持ってもらいたい。
だから、女性を褒める。
心から素晴らしいと思えるから。


今年の前半は今まで積極的に出さなかった
自分の価値観を表面に出していく事に使おうと思ってる。

そして自分の組織のメンバーを区切って
より興味があるものに特化して集まったり
同じレベルの者同士で集まったりしたい。

縦だけではなく横でも区切っていくことによって
より居心地の良い時間を提案出来るのではないかと考えている。


全員が全員と仲良くするなんて無理だよ。
努力する必要はあると思うけどね。

楽遊会も今年大きく変わる。
っていうか、変える。

過去にとらわれず常に最新の価値観で
「今」いいと思う事を真っすぐにやっていくのがいい。

何より俺がワクワクしないような組織に
誰もワクワクするわけないしな。


今年はいままでよりさらに自分らしく。
楽しみだ。

2014年1月2日木曜日

何事もまずは自分から。

物事をスタートするときに
大切な事があります。

スタートさせる時限定のことではなく
常に大切なのですが
意識しないとスタートさえきれないと思っている事。

それは、何事も先ずは自分からということです。


世の中の流れでは
何故か人がしてくれたことに対して
お返しをしましょうということはいうのに
自分から相手に尽くすということを
教えることは少ないです。

それはおそらくやらなくてもおとがめがないからだと思います。
しかし、得るものもないんですよね。


誰かが優しくしてくれたら優しくしたいという気持ちが生まれる。
じゃあ、その誰かは他の誰かに優しくしてもらっているのだろうか。
もちろん、それもあるでしょう。

でも、自分自身から優しさの輪を
広げて行く事が出来たらいいですよね。

きっと、それが出来れば自分の周りの世界は
ガラッと変わる。


大切なのは相手が求めている事だけをしてあげることです。
欲しくてほしくてどうしょうもないものをあげることが出来れば
相手は喜んでくれるでしょう。
自分があげたいものではなく
相手が求めているものですね。

好かれる人はそれが常に出来ている。
というか、無意識のうちにそうしてる感じがあります。

だから、どこに行っても好かれる。

嫌われる人というのは
自分が得しようと考えます。

好かれる人は相手を得させようと考える。
そうする事によって自分も得する事を知っています。
相手の喜びは自分の喜びだと感じられるだけの
器を兼ね備えることが
無理せず幸せになる近道かもしれませんね。


何事も先ずは自分から。
相手に求めるのではなく
相手に何をしてあげられるのか。

本当に大切なのはそれなんですよね。

なんだかたくさんの事を抱え込みすぎてる気がするので
僕じゃなくてもいいことは
僕じゃない人に話しふってあげれるようになろう。
話しをふった人にもメリットがある形で。

そうやって繋がっていけるのが
これからの時代の自然な在り方だと思っています。

女性も男性も関係なく
活躍出来るステージを作りたいな。

基盤さえ作る事が出来れば
後は何にでも応用出来る。


何事も先ずは自分から。
改めて意識していこう。

尖る。

決めた!

2014年は好き嫌いをハッキリさせよう!

基本的に人は人で自分は自分だと思っているので
価値観を押し付けるような事をするのは
好きではないし押し付けられるのも好きではない。

だからこそ物事を自分の視点だけではなく
極力フラットに見て判断する事は
得意だと考えている。

つまり、自分の長所だ。


その反面、自分の考えを人に伝える事は
少し苦手だ。
批判の対象になる種を自分で撒く事になりかねない。

基本的にどれだけ話し合っても
自分の中での答えは話し合う前から出してるので
気が変わる事はほぼ皆無。

だから話し合って相手の価値観は理解出来るが
それでも自分は自分、その人はその人の考え
どちらも大切にしたらいいという結果に落ち着くので
相手の考えを聞くという意味ではいいのだが
受け入れこっちが改善しないといけないと
押し付けてくる人は苦手なのだ。


人生は自分が使える時間を自由に使って行える
極小規模の社会実験だと考えている。

自分の価値観をコントロールし
行動をコントロールすることによって
社会実験を行いその結果を人生の教訓として学ぶ。

これが楽しいんだ。


数年前、人からの批判が恐くなった僕は
無意識のうちに今までよりもっともっとフラットに
物事を考え発言するようになった。

多角的に誰が聞いても批判なんて出にくいだろうということしか
語らなくなったような気がする。

抽象的な発言はするが具体的なことをいうと
どこかで角が立ったりしそうで恐かったのだと思う。


しかし、今年は好き嫌いをハッキリ書いたりしてみようと思う。

僕はあまり頭がよくないので
どれだけ人に止められても否定されても
自分で行動してその結果をこの目で見ない限りは
納得が出来ない。

だからもしかしたら好き嫌いをハッキリ発言する事によって
来年の今日、とても後悔しているかもしれない。

そんな可能性があろうとも僕はこの1人社会実験を
やってみたいと思ったのだ。


その理由はある。

批判や誤解を恐れて書く文章には
説得力がかけると思うのだ。

万人に響く言葉というのは
万人を傷つけないものではなく
万人の感情を動かす物だと思うのだ。

誰かは強く賛同し
誰かは強く否定する。

それが大切なのかもしれない。

批判も賛同もない言葉を
インターネットで書く意味なんて
皆無に等しい。

そんなものは存在しないも同じなのだ。


感情を動かさない言葉に
魅力なんて無い。


立場がどうとかもあるだろう。
でも、どうこう言われる立場の人間が
意思を示さないのも
よくないのではないか。

ついてくるものはついてくるだろう。
離れる人は離れるだろう。

それでも例え誰に理解されなくとも
俺は俺なのだ、こう考えるのだと
発する事によって
なおきちという人間らしさを
見てもらえるかもしれない。

失敗しても成功しても
周りから見てる人間は安全だ。



昔は自分に合う人しか周りにいなかったような気がする。
もともと人見知りなのもあるけど
おそらく好き勝手発言してたからだったのかもしれない。

もちろん何かを否定をしたいわけではない。
なおきち個人の主観として
物事を語ってもいいのではないか。と
考えるようになったのだ。


このなおきちずむ。というブログも
価値観の話しを主に書いてはいるが
賛否両論あることも含まれる。
だけど、賛同してくれる人も実は多い。

会う度になおきちずむ。いつも楽しみにしてますと
言ってくれる人もいる。

自分を振り返る機会になりましたと
言ってくれる人もいる。


失敗出来ないような人間は成功なんて絶対出来ない。
同じように、敵を作る事を恐れている人間に
味方なんて出来ないと思ったんだ。

敵を作る事は本当に嫌い。
基本的に誰かを強く嫌う事は
僕の場合極端に少ないので。

それなのに相手にすごく嫌われ敵だと思われるのは
なんだかなぁ。。と。

敵を無理に作る必要はないんだよな。

でも、敵が出来てしまうことを恐れて
思っている事を口にも出せないのであれば
なおきちという人間は死んでるも同然なんだよな。

人間に戻ろう。
格好わるいところも時には見せよう。

っていうか、カッコつけてるとこが
格好わるいなとよく自分に思う。笑

なにかっこつけてんだよってさ。
ダセ〜な、自分って。



あれは好き、これは嫌い。
ということを書いてこ。
積極的に。

もしかしたらそんなことをしても
なんの意味もないのかもしれない。
でも、なんかやってみたいんよね。
そんな気分。

正月からなんか変な直感がわいたので
残しておきます。